わだ晶子

連 絡 先 (パキスタン)

プロフィール

佐賀県佐賀市生まれ。
佐賀県立西高等学校、東京写真専門学院報道学科卒業。

楽器業界誌の写真・記事担当、アメリカ大使館輸出開発室でプロモーション・アシスタント。その他、NHK資料室、パラオ共和国日本料理店のフロアー・マネジャー他諸々の職種のキャリアあり。

◆1975年から1980年代にかけて
エジプト、スーダン、ケニア、インド北部、ネパール、バングラデイッシュ、タイ
ミクロネシアのパラオ共和国、マレーシア、シンガポール、インドネシア、インド南部、ラダック・カシミール地方、香港、中国(チベットも含む)を旅する。

◆1987年
陸路で中国からシルクロードを通ってヨーロッパに向かう途中に、カラーシャ族の住むボンボレット谷を訪れ、冬の大祭りチョウモスを体験。以来カラーシャに魅せられ、カラーシャと暮らし、同居家族の長男と姉弟の契りの儀を結ぶ。

1989年
一時帰国して、東京と故郷の佐賀で写真展を開き、その時のカンパや祝儀金で、伝統習慣に保守的なルンブール谷に女性の共同沐浴場を建てる。その個人プロジェクトがきっかけで、1993年にルンブール谷の男性と結婚。

 

◆2007年7月と9月

左右の人工股関節置換手術を東京で受ける。

 

わだ晶子の個人としてのルンブール谷での活動

◆1990年
マリー・ブルーリー社と日本の友人の協力により、ボンボレットとルンブール谷の女性の生理出産小屋にストーブ、ベッドなどの備品を入れる。

写真展の祝い金とカンパで、ルンブール谷に初めての「女性の共同沐浴場」を建てる。

◆1994年
日本大使館の草の根援助金で、アガ・カーン辺境開発計画を通して、ルンブールとビリール谷に「ミニ水力発電所」が建設された際、現地側受け入れ代表者としてに尽力。谷のイスラム教徒を含む大半の家に明かりが灯る。

◆1997年
日本企業の援助金で、長老を説得して生理出産小屋に電気を入れる。(それまでは小屋は不浄だからと電気はつなげてもらえなかった。)

高校卒業したルンブール谷の学生を毎年一人、チトラールのカレッジに送るための奨学金制度を始める。(ギリシャ人の多額な援助金と重なり、3年後に中止。)

◆1997年
NHK衛星放送「アジア染織紀行」シリーズで、カラーシャ谷の衰退していく伝統的な染織を紹介する番組の現地コーディネイトをする。

◆1998年
日本人会のジャカランタの会の支援により、子供たちを就学させる活動として、ルンブール谷の0学年から10学年生の生徒全員に教科書を配布する活動を開始する。

「ルンブール福祉文化開発組合」を立ち上げ、NPOとして登録。それまでの個人の活動を共同体規模に広げる。

以後の活動は、NPO「ルンブール福祉文化開発組合」の頁を参照

◆2000年
カラーシャの冬の大祭チョウモスを扱った、NHK衛星放送番組「太古に響く・・・」の撮影テープを全翻訳。

◆2006年11月
わだ晶子の村での生活や活動を取材した、テレビ東京の報道番組、「ザ・ドキュメント/カラーシャに恋して」 が放映される 。

 

◆2013年3月5日

わだ晶子自身が現地の生活を撮影したドキュメンタリー番組、「ビデオ日記パキスタン/駆け落ち婚の谷」がNHK BSプレミアムで放映される。

 

著作等の活動

著 書:「パキスタンへ嫁に行く」三一書房(1995年)
写真集:「カラーシャー/その生活と伝統」サンゲミール出版社(2003年)
著 作:「赤が映える/カラーシャ族の女たち」アサヒグラフ(1992年7月14日号)
    「ガンダーラ仏教遺跡が危機に瀕している」毎日グラフ(1993年)他


●ルンブール福祉文化開発組合代表
●ペシャワール会会員
●ICLC(国際識字文化センター)会員
●CPC(創作手すき紙委員会)副議長

コニカミノルタプラザでの写真展
コニカミノルタプラザでの写真展

写真展:

「パキスタンの桃源郷/カラーシャ族の谷」国分寺・ギャラリー「風」、佐賀市・九電ホール(1989年)
「豊美なる伝統行事」東京新宿コニカミノルタ・プラザ、福岡市・NHKギャラリー(2005年)

「カラーシャ族との25年」佐賀市・ギャラリー「シルクロ」(2013年) 

 

好きなこと・嫌いなこと

好きなこと:
そこに在るものを、よりベターにコーディネイトすること。
したがって、部屋の模様替えや、古いものを新しい物に作り変える(リサイクル)などの作業は、楽しんでやる。

嫌いなこと:
外側ばかりに気を使って中味がないこと(人物も、援助活動も)
資源を無駄にすること。