2018年

10月

31日

サンドリガと松の実

先日、親戚たちの畑と夏の家があるサンドリガに行ってきた。村から上流に向かい一番目の支流の沢を、私の足で45分ほど登ったところに十数世帯の畑と家が点在する。

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2018年

10月

22日

犬のタローと耳

 私の飼い犬のタローは、私の留守中の半年間、最初の頃は山羊の放牧に行くサジャットの父さんについていっていたが、夏の高地の放牧場には連れていってもらえず、村でサジャットの家族が面倒をみていた。昼間は私の家の周りにつながれ、夜に放されていたよう。

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2018年

10月

16日

バラングル村にもどってから2週間

 村に着いた夕方、こともあろうに我が家だけに電気がつかず、すぐに発電所の担当の村人を呼ぶが、原因不明でその夜は電気なし。ロウソクのぼんやり灯火の中、6ヶ月分の埃を掃除することもできず、荷物も解かずに、電気がなかった頃を思い出しながら寝る。

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2018年

10月

09日

村の我が家からブログ更新

 10月2日の午後3時に、ボンボレット谷の親戚の友人(30代のパキスタン人。一人はドキュメンタリーのプロデューサー、一人はしがない俳優らしい)がボンボレットに行くというので、彼らの軽自家用車に便乗して、チトラールに午前3時前に12時間かかって到着。

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2018年

10月

02日

イスラマバードにいるうちに色々訪ねる。

 カラーシャの谷も温暖化と山林伐採で、鉄砲水・洪水災害はひどくなるばかり。山林保護のために、薪を使うのを減らし、別のエネルギーを模索しようと、ヘルガさんが練炭を製造・販売している方を紹介してくれた。

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2018年

9月

29日

キラン図書室の本を購入

NBF(National Book Foundationー国立書籍財団) で、「Akikoの家」のキラン図書室に置く追加の本を購入しました。

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2018年

9月

28日

国立農業研究センターで

 イスラマバードで世話になっているヘルガさんはドイツ人だが、パキスタン人のご主人とイギリス留学中に知り合って結婚。以来60年近くパキスタンに住んでいる。

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2018年

9月

26日

上海はなかなか。

 予定通り22日に佐賀空港から上海に発った。どういうわけか春秋航空は出発時刻よりも10分ぐらい前に離陸し、上海に1時間半で到着した。九州と中国がいかに近いか実感する。しかし滑走路に着陸してから空港の建物に入るまでに、他の飛行機が離陸するのを待って滑走路を横切ったり、じっと止まったままだったりして30分以上もかかったから、佐賀~上海合計2時間で合ってることになるのだろう。

 

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2018年

9月

25日

佐賀もよかとこ

イスラマバードに着きました。

上海で私のMacと Wifiの相性が突然悪くなり、ネットがつながらない状態でしたが、イスラマバードのヘルガさんのお宅では接続でき、ほっとしています。明日、上海の日記をアップします。今日は佐賀の写真を少し載せときましょう。

 

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2018年

9月

20日

明後日、上海に飛びます

9月に入り、狂気の猛暑から脱出したのに、メルトダウンした脳みそは元に戻らず、文章を書くという作業ができなくなってしまったようだ。

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2018年

8月

03日

レラさんの祈りの儀式

 佐賀に居ります。猛暑の中、ブログを更新することすら放ったらかしになっていました。遅ればせながら、6月の北海道行きの報告をばさせてもらいます。あ~、今日も暑いよ~。

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2018年

5月

29日

ポストカードができた

前々から作成しなければと思っていたポストカード、昨年秋にようやくラホールの知り合いの印刷屋さんに頼みました。すぐできるという話でしたが、年を越し、春近くになり、私が一時帰国に向けてバラングル村を出る寸前に出来上がって来ました。

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2018年

5月

16日

原発はいらないよー

佐賀に一時帰省したので、さっそく再稼働反対運動、に参加開始しています。

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2018年

5月

10日

豊島と倉敷を訪れる

 4月10日の夜行バスで東京を出て、九州・佐賀に帰省する途中、岡山で降りて、瀬戸内海に浮かぶ豊島(てしま)にフェリーで向かった。ルクセンブルクから久しぶりに日本に一人旅に来ていた、いさ子さんのお友達のイオンに会うためだ。彼とは25年以上前に九州で会って以来だ。

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2018年

3月

22日

ICLCPの方々と会う  Met the members of ICLCP(International Center for Literacy & Culture, Islamabad)

「AKIKOの家」のキラン図書室の図書購入の際や、写真集出版の際に世話をかけているNational Book Foundationのショーカット・アリ氏のお宅に呼ばれて、久しぶりに夫人や息子さんにお会いした。

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2018年

3月

19日

再生利用、バンザーイ!Hurrah for Recycling

マリーナ、このスカートの裾、記憶ある?

Marina, do you recognize the hem of my skirt?

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2018年

3月

16日

陸路でイスラマバードへ着きました

 3月13日の早朝、ルンブール谷の我が家を出て、乗り合いジープでチトラールの町で一泊、病院で喉の手術を受けた親戚(ジャマットの従兄妹)を見舞い、銀行の雑務を済ませて、翌朝イスラマバード行きのコーチに乗りました。

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2018年

2月

14日

JICA広報誌mundiにカラーシャの紹介写真と記事が掲載ー My article about the Kalasha appeared in “mundi”, JICA’s public magazine

 昨年秋、JICAさんの広報誌mundiの編集担当の方から、読者アンケートでカラーシャ族を特集して欲しいというご要望があったので、「地球ギャラリー」のページに写真数枚とテキストでカラーシャを紹介してもらえないかという話があり、すぐに引き受けました。その記事が、今年の2月号に掲載され、ネット上に上がりましたので、よかったら目をお通しください。

 

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2018年

2月

01日

今年は戌年なんですね。This year is the year of the dog .

そしたらうちのタローの出番だったのに、うっかり年賀挨拶に登場させるのを忘れていました。

This year is the year of the dog so I was thinking to put my dog, Taroh, on the new year greeting but had forgotten.

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2018年

1月

15日

カラーシャの正月は? How do the Kalasha people celebrate for new year?

 新年の年賀メールを支援者の方や友人達に出したら、「カラーシャはどんな正月ですか」という返信がけっこうきたので、このブログでルンブール谷の新年を紹介しようと思ってからもう1月半ば。

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2018年

1月

04日

A Happy New Year! 新年明けましておめでとうございます

 I wish you a year filled with peace, good health and happiness. 
新しい年が平和と健康と幸福で満たされますように。
 
 
I am very grateful to you for the kindness you showed me last year. u
I look forward to your continued good will in this year.
昨年はお世話になりました。 今年もどうぞよろしくお願いします。
From Rumbur valley 
ルンブール谷にて
Akiko Wada
わだ晶子
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2017年

11月

27日

「女の新聞」に記事が An article about me

5月に20日間ほどバラングル村に滞在された古庄弘枝さんは、電磁波などの環境汚染問題に警鐘を鳴らすノンフィクションライターで、「スマホ汚染 新型複合汚染の真実」(鳥影社)ほか、多くの著書を出版されてます。10月25日の「女の新聞」に古庄さんが書いた私の紹介記事が掲載されました。ぜひ読んでください。

 

しかし客観的に写真を見ると、ほんとバーバ(姉さん)からババァになったと痛感しますなあ。

 

Ms. Hiroe Kosho, a nonfiction writer warning for the environment specially rediation of smartphone, who stayed at my village for 20 days in May this year wrote an article about me on  ‘Onnano shinbun’ (Newspaper for women).

 

I realize I become a ‘babaa (old woman in Japanese)’ from ‘baaba (sister in Kalasha)’.

 

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2017年

11月

26日

誕生日のメニュー Dinner menu on my birthday

昨日は誕生日でした。

 

25 Nov. is my birthday.

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2017年

11月

20日

少数派の夕食会/Dinner with the minority members

Dinner with the minority members organised by MNA I. Bhandara.

 

昨夜少数派代表の国会議員であるイシュパニヤール・バンダラ氏主催のパキスタン少数派の集まりに参加しました。

 

 

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2017年

11月

08日

パキスタンの都市もニューデリーか北京のようになった。The cities in Pakistan become like New Delhi and Beijing

 10月8日から約20日間サイフラー・ゲストハウスに滞在してらしたH子さんと一緒に10月27日ルンブール谷を出て、翌日朝出発のイスラマバード行きの乗り合いコーチに乗り、夜11時にイスラマバードのG9(カラチカンパニー)に着いた。

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2017年

11月

07日

わんぱくタローの証拠写真 Picture for evidence of Naughty Taroh

 秋のクリケット・トーナメント戦が行われていた上流のサジゴールトンに、タローを連れて散歩がてら出かけた。

The other days I had a walk with my dog, Taroh, to the upper stream where the cricket tournament was holding.

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2017年

11月

05日

I. バンダラ氏の来訪

 

 ムスリム以外でクリスチャンを除くパキスタンの宗教的少数派の代表国会議員であるイスファニャール・バンダラ氏が、10月20日~22日の三日間カラーシャの三つの谷を訪問された。

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2017年

11月

02日

ビリール谷のプー祭

 

 

 カラーシャ三つの谷の中で一番南に位置するビリール谷は、他の二つの谷に比べたら穀物の収穫高は少ない代わりに葡萄がたくさん獲れる。

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2017年

11月

01日

松の実

カラーシャたちの秋の大きな現金収入源の一つである松の実。

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2017年

10月

06日

クルミの収穫

 9月から10月の初めまではクルミの収穫期だ。今ではカラーシャのほとんどの家がクルミの木を所有しているが、30年ほど前まではほとんどのクルミの木は麓の町アユーンの人たちが所有していた。それより前、貨幣経済がカラーシャ社会に入って来た頃、無知なカラーシャたちは1ルピーや帽子1個と若いクルミの木を交換したり、あるいは兄弟関係になった印としてクルミの木を贈ったりしていたらしい。

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2017年

9月

14日

実りの秋

9月は収穫の月。畑にはトウモロコシ、豆、そして木にはクルミ、ぶどう、りんご、梨、桃などの果物が実る。

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2017年

8月

29日

ウチャオ祭が終わる

 例年のように8月22日にルンブール谷とボンボレット谷ではウチャオ祭が開かれた。5月の終わりから高地の山羊の放牧地に滞在していた男たちがチーズを背負って山を降りて来て、まず聖域サジゴールでチーズを捧げる儀礼をする。そして、この祭りが終わったら、人々は畑の作物の収穫に専念する。

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2017年

8月

12日

クラカル村

 ところが、今回クラカル村を訪れて驚いた。一昨年ボンボレット谷は鉄砲水に襲われ多大な被害を被って、クラカル村への道路も寸断され、一時はどうなることかと心配したが、今は奥の放牧地まで道は通じ、特にクラカル村は復興以上に別世界のようになっていた。

 

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2017年

8月

12日

ボンボレット谷

 ボンボレット谷を三ヶ月ぶりで訪ねた。今回はクラカル村の叔母さん(亡くなったカラーシャ母さんの妹)が昨冬体調を悪くしていたと聞いていたので会いに行くこと、そしてクラカル村に新しく出来ているという「クラフト・センター」を訪問することが主な目的だった。

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2017年

7月

17日

いい番犬になってくれるかタロちゃん(7月16日)

 6月はじめ、ジャマットの庭の端に積んである古木材の下でメス野良犬が6匹の子供を産んだ。その中で一番頭や手足が大きく、口周り、手足先、しっぽの先が白くて、私が見た中では一番グッドルッキングだったオスを、うちの番犬にしようと目をつけた。

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2017年

7月

17日

最近のスナップ(6月〜7月)

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2017年

7月

17日

イスラムへの改宗者続く(6月26日)

 うちの村の若者Zがムスリムになったという。ここ一ヶ月の間にルンブールの男女5人の若者がムスリムになっている。毎年1、2人改宗する者はいるにはいたが、こんなに短期間にまとまってだと、どうしたことかとみんなも心配している。

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2017年

6月

20日

最近のスナップ写真

最近のスナップ写真

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2017年

6月

20日

クラフト活動も考えてしまうよ

2017年6月初め

 

 ジョシの祭りが終わり、そろそろ日常生活を始めようかという時に、発電所の発電機が壊れてしまい、修理で10日間ほど電気なし。水道の水も、私が村に帰ってからずーとチョロ

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2017年

6月

20日

カラーシャ小学校の今

 2013年に土石流で跡形もなくなってしまったルンブール谷のカラーシャ小学校だが、すぐに再建の話があり、予算額も州政府から降りたというニュースが新聞にも載ったというのに、どこでどうなったのか、小学校の敷地を囲む石壁とトイレは昨年造られたが、もう4年が経とうとしているのに校舎の建設はいっこうに始まらない。

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2017年

5月

18日

冠婚葬祭続き日常生活は始まらず−2

 サイフラーさんのお父さんは昨年も5日間ほど意識もなく何も食べず生死の境をさまよったが、運良く蘇って、村内の別の寝たきりの老人を毎日見舞うほどの元気を取り戻したくらいだから、今回2日前にサイフラーさんの母屋に普段通りに座っているお父さんを見ていたので、彼が寝込んでしまい意識もないと聞いても大したことはないだろうと思っていた。しかし今度はあっさりと神の元に旅立ってしまった。

 

 

 

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2017年

5月

18日

冠婚葬祭続き日常生活は始まらず−1

 4月30日夕方ルンブール谷に無事に着いた翌日、ボンボレット谷のお年寄りが亡くなったという知らせが入ったので、翌々日に葬式に行く。ボンボレットに2泊3日してルンブールに戻り、古庄さんに同行してビリール谷を日帰りで訪問する。その数日後に今度は何と、サイフラーさんのお父さんが亡くなってしまった。

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2017年

5月

17日

パキスタンも電磁放射線の洪水

2017年4月29日

 

 今回の一時帰国は短期にして早めに冬期にルンブール谷に戻ろうと思っていたのに、パソコンのトラブルで一ヶ月半遅れ、そのまま何やかんやでズルズルとあるいは超特急のように時間は経ち、パキスタンへの出発は4月の末になってしまった。

 

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2017年

3月

25日

なかなかねえ

 カラーシャに住み始めて30年になったし、22年前に出した「パキスタンへ嫁に行く」から谷の様子も変わったし、自分自身のカラーシャに対しての思いも変化しているし、願わくはそれが収入源になってくれればとの思いで、新しく本を出そうと決心したのはいいが、なかなかまとまらない。書きたいことはあり過ぎるほどあるのに、頭の中が混乱している。

 

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2017年

3月

25日

出来たばかりの橋が真っ二つ

 ごめんなさい。これは一ヶ月前にアップし損ねたブログです。

 

 一昨日、キラン図書室を開いてくれているヤシール先生から電話がありました。このところの大雨続きで、先日4フィート積もった雪も大方解けてしまったそうです。

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2017年

2月

14日

本の準備と言いながらも温泉へ

ルンブールに戻るのが遅れた理由は、パソコンのトラブルのためでした。

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2017年

2月

14日

チトラール地方も大雪

寒さで震え上がる日々ですが、ルンブールの谷があるチトラール地方も大寒波に襲われて大雪に見舞われたそうです。

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2017年

1月

22日

2017年もよろしくお願いいたします。

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2016年

11月

30日

夢の三江線-3/行ったり来たり三江線

15日朝、大和荘のお湯で体はまだぽっかぽか。

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2016年

11月

30日

夢の三江線-2

 11月14日朝、橋本さんお手製のおいしいカレーとホームメイド・パンの朝食をいただいた後、2年前に地域興し協力隊として働いていた佳世さんを通じて知り合ったNさんが車で迎えに来てくださる。

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2016年

11月

25日

夢の三江線めぐり-1

  10月18日に日本に着く前だったか、着いてからだったか、島根県美郷町で「くじら窯」を構えている陶芸家の橋本白道さんからの情報で、「三江線が廃線になる」ことを知った。

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2016年

11月

03日

イノシシのおかげで飛行機に乗り遅れた!

またまた、飛行機関係の記事でございます。

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2016年

11月

03日

アブダビ、バンコク経由で帰国

10月16日夜中に、イスラマバードからアブダビへEtihad航空のフライトで飛び、そこで乗り換えて同じ航空会社で17日夕方にバンコクに着いた。

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2016年

10月

16日

飛ばんかったぞ~

10月5日、予約していたフライトは欠航になり、次のフライトは2日後だったし、天気は下り坂だったので、陸路で行くことにした。

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2016年

10月

05日

カラーシャの犬&近況スナップ写真

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2016年

9月

26日

もうすぐ一時帰国

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2016年

9月

16日

義兄の喪明け

私たちは、昨年亡くなった語り部の話を保存する活動を前々から行ってきていますが、先日訪れたイタリア大使館の方と「パキスタン貧困軽減基金」の方から協力できるかもという知らせを受けて、向こうからのメールを見にチトラールに来ています。

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2016年

9月

05日

義兄の葬式に想う

 先日、ブログアップしたばかりだが、また急なEメールの用事で8月31日にチトラールに行かねばならなく、そのつもりでいたが、その前日に義兄が逝去してしまった。

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2016年

8月

25日

夏祭り、ウチョウも終わった

カラーシャの生活は冠婚葬祭を軸にして回っている感がある。春祭り(ジョシ)が終わると、人々は次の夏祭り(ウチャウ)を頭に描いて日常を送る。

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2016年

8月

15日

しこしこハンディクラフト

この季節はハエとノミの天下となる。

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2016年

8月

15日

護衛のポリス

 ルンブール谷に戻ってから2ヶ月になる。(このブログは7月に書いたもの)カラーシャ谷も、それを含むチトラール地方もこれまで通り平穏で、外国人旅行者もポツリポツリではあるが、昨年よりは少し増えてきているように思う。

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2016年

8月

15日

トタン屋根

7月11日

 

 ムスリムの断食月と断食明けイード連休が7月10日にやっとこさ終わってくれ、チトラールの町もこれからは平常に戻り、役所やお店の人たちはちゃんと働いてくれるかな、と期待したいところだけれど、

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2016年

7月

13日

昨年夏の洪水・鉄砲水被害の写真

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2016年

7月

04日

ルンブールでは元気にしてます。

遅ればせながら先月のブログをアップします。

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2016年

5月

11日

3都市を行ったり来たりー再びイスラマバード

 ラホールのサンゲミール出版社に写真集の8ページの追加ページのテキストと写真、およびキャプションをレイアウトしたのをメールで送って一仕事終わり、5月3日にイスラマバードのヘルガさんちに戻る。

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2016年

5月

06日

3都市を行ったり来たりーラホール

それで翌日にペシャワールから511キロ離れている、インドとの国境近くにあるラホールまで高速バスで向かう。韓国経営のDeawooバスで7時間ほどかかった。

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2016年

5月

06日

3都市を行ったり来たりーペシャワール

外国人向けのIDカードの制度が昨年末で中止になっていたために、IDカードを更新できず、ビザを取ることになった。

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2016年

4月

18日

イスラマバードでは皆さん普通に暮らしている

 「日本は地震が明日にでも来るかもしれない状況だ」という危機感は持っていましたが、そうはいいながらも、私が佐賀を出て間もない時に、まさか近所の熊本で大きな地震が起きようとは、もう驚き以外何もありません。この度被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。

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2016年

4月

13日

もう災害が始まっている

無事に到着

 

 4月11日、成田14時発のパキスタン航空が1時間半ばかり遅れて飛び立ったので、イスラマバードの空港に到着したのは11時過ぎ。

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2016年

1月

12日

「みんなの大学」で講演

 一昨年に引き続いて、昨年の11月25日、12月2日の2回、佐賀大学の一般人向けの講座「みんなの大学」で講演をしました。

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2016年

1月

06日

韓日交流展

 このブログの仕様が変わってしまい、以前のかたちでできなくなったので、昨年の7月以降はアップしていなかったのですが、今やってみたら、以前のようにはいきませんが、シンプルな形でどうにかアップできるので、再開することにしました。ということで、今年もどうぞよろしくお願いします。

 

  まず、昨年後半、日本に一時帰国してからのカラーシャに関する活動についての写真報告をいたします。

 

⚫️韓日交流展

 佐賀市と釜山市は友好都市。2000年頃から10年間公的機関により、芸術家の交流展が毎年、佐賀と釜山と場所を交代しながら開かれていたようです。10年経ち、市がこの企画を止めてしまった。しかし関わっていた双方の芸術家たちが、「断ち切れになるのは惜しい」と、自主的に釜山で開くことになり、2015年で5回目になりました。

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2016年

1月

06日

ムリャーの父さん逝く

 昨夜の12時近くに電話が鳴りました。「こんな時間になんじゃらほい。きっと、パキスタンから時差(4時間遅い)も考えないでかけてるんだろう」とちょっと気分を害しながら受話器を取りました。それはやはりパキスタンからでした。「ムリャーの父さんが亡くなった」つい先日電話をかけてきたばかりで、時差のことも認識しているはずのサイフラーさんからでした。「今、葬式のためにブルーンに来ている」と言う。

 

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2016年

1月

04日

今年もどうぞよろしくお願い致します。

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2015年

7月

26日

ギルギットからソストへ Gilgit to Sost

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2015年

7月

21日

ギルギットのスナップ写真

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2015年

7月

18日

冊子・「チョウモス」についての語りー写真

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2015年

7月

18日

ギルギットに着いた

 イスラマバード、16日の夜8時発のNATCO(Northern Areas Transport Corporation) バスが出発時点ですでに1時間遅れ、ギルギットに着いたのは翌日の午後6時。始めのうちは1時間走ったら、食事やセキュリティチェックなどのために1時間止まったりして、かかったのは全部で実に21時間。これは先日のチトラール〜イスラマバードの朝8時半出発、夜10時イスラマバード着の13時間半よりもダントツに長いドライブだった。


 パキスタンに来てから28年、チトラール〜ペシャワール、またはチトラール〜イスラマバードは数え切れないほど陸路でも旅したが、イスラマバード〜ギルギットは何と初めての体験だった。カラコルム・ハイウエイは道幅も広く快適だと思っていたのに、ジグザグのカーブが多くて、揺れること揺れること。行儀の悪い乗客が捨てたペットボトルやらポテトチップスの袋やらお菓子のくずが、その度にバスの中であっちにごろごろ、こっちにごろごろ。途中で、私の隣の席の男性が、私がショルダーバッグとデイパックの二つを抱えて大変だろうと、空いている席に移ってくれたので、私は2席使えることになり、靴を脱いで足を上げれて楽ちんだったが、私の靴もペットボトルなどのゴミと一緒にバスの床をずるずる移動しておりました。


 インダス河からかなり上方を走るハイウェイからの景色はチトラール地方と似たところも一部あるけれど、それよりも何十倍もダイナミックだ。しかし人が住む村があまり見られず、多くが砂漠化しているように見えた。玄奘法師が通った昔からこうだったのだろうか、それとも近年になってからこうなったのか気になった。


 17日からラマザン明けのイード祭が始まった。ほんとうはどんどん中国国境に向けて移動したいところだが、イード祭の間はどこもかしこも、店もバス会社も休みなんで、数日間マディナ・ゲストハウスに滞在することにした。このゲストハウスのオーナー、ヤクッブさんは少し知り合いなので(5年前にこのゲストハウスでなく、マディナ・ホテルに泊まったことにより)、イード祭期間も安心して滞在できる。部屋は清潔でとても感じがよい。リーズナブルな部屋代なのにトイレにはパキスタン式と西洋式の二つの便器があった。


 写真はこの後、フォトギャラリーでアップする予定。

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2015年

7月

15日

カジの語りの本作り


先月のブログの後半は、ちょっと後回しします。お許しを。


 カラーシャ唯一の語り部だったコシナワス・カジが5月のはじめに突然亡くなったことは、5月のブログに書いたが、その4ヶ月半ほど前、チョウモスの祭りが済んだ頃から、以前カジがルンブール小学校で生徒たちに話した録音テープから、重要なものを選び、冊子本作りを始めていた。まず最初に「チョウモス」を選んだ。


 テープ起こしはこれらの話を録音したヤシールと、英語の字がきれいなマシャールに頼んだ。以前にも書いたからもしれないが、カラーシャは元々文字を持っていない上に、あいまいな発音が多いので、その表記が非常に難しい。1990年代にクリスチャン・ミッション系の言語専門家たち(西洋人)が、カラーシャ語/ウルドゥー語/英語の辞書を作成したが、大変読みにくく、また、それは都会で作られたものだから、言葉の意味や訳がカラーシャの実生活とかけ離れ違っているのもそこここに見受けられた。


 その後に、ボンボレットで活動していたギリシャ人たちが、カラーシャ語の教科書を作り、ギリシャ人が建てた小学校では現在それが使われている。こっちの方は比較的読みやすく、そして書きやすい。そこで、私たちはそちらの表記を参考にさせてもらって、テープ起こしをした。それでもヤシールたちもカラーシャ語で書くのが慣れてないので、まちがいが多くあった。書いた後、何度もチェックしても、同じ単語がこちらとあちらでは別表記になっているのを見つけだしたりした。


 テープ起こしをしたものを、チトラールのカレッジで勉強していて、パソコンを持っているカラーシャ学生に打ってもらったが、パソコンの調子が悪かったりで、その作業が大幅に遅れて、USBスティックに保存したのを私の仕事場に持ってきたのは5月の春祭り後だった。


 キーの打ち間違いもあるだろうし、句読点がほとんど入れられていなかったので、その作業は私が行い、その後も何度もヤシールやサイフラーさん(彼は過去長い間、民族学者や言語学者の通訳としてコシナワス・カジと仕事をしている)に校正してもらって、ようやく6月に原稿が完成した。


 取りあえずはこれを20〜50部ほど、印刷するか、コピーして、キラン図書室に置いて、生徒たちに読んでもらうつもりだが、さらに冊子本を増やして、行く行くはきちんとした本にできればと思っている。

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2015年

6月

15日

ペシャワールに患者2人を連れて

 この1年間、ダジャリの二男、3歳になるサジャッタリの家族は、サジャッタリの腹痛のことで安寧できない。腹痛が始まると3〜4日間は母親の腕の中からいっときも離れず、食事も取らず、泣いてばかりいる。腹痛がひどくなると、それが夜ということも多く、高い金額で車をチャーターしてチトラールの病院に連れていかねばならない。病院に2〜3日入院するとだいたい治まり、家に戻ってくる。


 しかし、また1ケ月ほどすると、腹痛が始まり、同じことがくり返される。チトラール市民病院の小児科の医者、内科の医者、町の医者と、チトラールの子供を診てもらえるすべての医者にかかったが、根本的な原因、どうして腹痛がくり返し起こるかが明確でない。


 便通が4日に一度というサジャッタリの腹はたいていパンパン。この便秘症に加えて腹に虫がいるのではと私は疑っていたが、何人目かの医者にかかったときに調べてもらって「虫はいない」と言われたということから、それ以来虫はいないと母親は思っている。でもカラーシャの生活環境では虫がいない方がおかしい。以前、外国の医療チームがルンブールの小学校の生徒を調べたら、すべての生徒に虫がいたときいたことがある。


 またカラーシャの食生活は主食(とうもろこしと小麦)にバターミルクなどの乳製品、あるいはチャイをおかずにするだけで、野菜料理が圧倒的に少ない。砂糖はなにが何でも優先して買うが、玉葱以外野菜にお金は使わない。こういった食生活にも問題があると前から思っていて、機会あるごとにカラーシャたちにも「野菜を食べるよう」言っているが、まだまだ肉や油を好む傾向は変わっていない。


 今回6月初め、サジャッタリが再び腹痛でチトラール病院に連れて行かれた。また数日したら良くなって戻って来るだろうと思っていたが、3日しても良くなるどころか、いっさい食べ物を口にせず、吐くばかり。子供用のシロップ薬を飲ませても吐いてしまうという。チトラールの医者は完全に治すことができないなら、ペシャワールに連れていかねばと思っているところへ、6月5日の午後、付き添いで病院にいるジャマットから電話があり、「サジャッタリがやばい。ペシャワールに連れていくから、一緒にきてくれ」と言う。「明朝の乗り合い車で、そっちの病院に行く」と返事すると、「明日じゃだめだ。車をチャーターして今日中に来てくれ」とただ事でない様子で言われたので、最小限の荷物を急いでまとめて、チトラールに急ぐ。しょっちゅう病人に付き添い、病院のことについてくわしく、ウルドゥー語もできるグリスタンも連れていくことにする。


 暗くなってチトラールに着く。病院の小児科病棟でサジャッタリは母親に抱かれて気分悪そうにしている。3日間食べてないので身体全体が青くなっていて、目のまわりは黒く落ち込んでいる。その日は水も飲まないという。嘔吐は続き、吐くものがないので、吐いた液体に血が混ざっていたと、母親は泣き声になっている。病院にいるから点滴は時々やってもらっているようだが、水も飲まないとなると、小さい子供はすぐに脱水症になり危ない状態になることはしろうとの私でも知っている。

 チトラール病院で書いてもらったペシャワール向けのリファレンスには、MRIかCTSが必要と書かれている。受ける前の制約がたくさんあるMRIやCTSを、水を飲むよう言っても嫌なときは断固として飲まないような、こんな小さい子供がちゃんと受けることができるのだろうか疑問ではある。


 ルンブールでチャーターしたカラーシャの車をそのままチャーターして、ラワリ峠(3150m)の向こうのディールの街まで行ってもらうことにする。カラーシャの民族衣装は暑いし、目立ち過ぎるので、私が持ってきたシャワール・カミーズにサジャッタリの母さんは着替え、グリスタンは従妹から借りたシャワール・カミーズに着替える。私は家ですでにシャワール・カミーズ姿になっていた。


 夜9時ごろチトラール出発、ラワリ峠を越えて(寒かった)ディールに着いたのが午前3時。そこでうまい具合に車をチャーターできて、ペシャワールに朝9時すぎに到着した。


 道中、車の中でも、極力、坊やに水分を取るよう、水やジュースを一口でもとなだめすかして取らしていたが、チトラールの病院で吐きながらも取っていたシロップが効いたのもあってか、ペシャワールに着いたら、坊やは水やジュースを自分から飲むようになり、ナンも少し食べるようになった。

 

 停電になりそうなので、この続きは次回にします。

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2015年

6月

01日

へんちくりんな選挙

 5月30日の土曜日にカイバル・パシュトゥンクァ州の地方選挙が行われた。いくつかの町村が集まって成すユニオン議会の議員、その議長、それらが集まって成すディストリクトの議員を選ぶ選挙である。新聞によると、今回の選挙では州全体で41,000の議席に85,000人が立候補していた。

 ルンブール谷、ブンブレット谷、ビリール谷のカラーシャ三谷は麓のアユーン町と合わせて一つのユニオンになり、このユニオンの議席は以前の22席から今回は、青年、少数派、農民、女性、一般と5種に別れ、54席に増えた。ルンブール谷では青年(1人)、少数派(1人)、農民(2人)、女性(2人)、一般(5人)の議席があてがれ、他に、ユニオン区代表議員とディストリクト議員を5つの政党の中から選ぶようになっている。つまり7種類の投票を一度にするわけで、混乱この上ない。


投票日

 投票は午前8時から午後5時まで、いつもの中学校で行われるということで、私も朝9時すぎにダジャリの母さんに付いて投票場に行ってみる。村はずれの神殿近くのテーラーの店先で人だかりがしていたので、見ると、村の若者たちが投票に行く人たちに投票リスト番号を書いた小さな紙切れを渡している。ダジャリの母さんも42番の紙切れをもらう。川沿いの道に出たら、ここでまた村の若者が、投票用紙をどういう風に折るのかを説明している。半分ではなくて三等分に折るようにとのこと。(別なところでは、投票用紙は折らないでそのまま入れるよう言っていた。)


 橋を渡って会場に近づくにつれ人が多くなる。中学校の入口前には警官が4、5人立っている。元うちのスタッフで警官になったジャムシェールはヘルメットに防弾チョッキを付けて重装備、ちと大げさじゃないかと笑ってしまった。


 会場に入ると、狭い校庭が男女左右に分けてあって待合所になっている。女性側にグリスタンともう1人の娘がボランティアで座っている。一段上のベランダに長机が二つずつ並べられて、夫々に4人の小中教員が投票手続きを行っている。

 最初に有権者リスト(IDカードの写真がコピーされているもの)と本人持参のIDカード、紙切れの番号が確認されてから、本人の親指の爪に青インクで確認マークが塗られ、次の教員が3種の投票用紙の冊に、それぞれ本人の投票番号とID番号を手書きで書き、そこに本人の親指捺印を押させてから、一枚ずつ破って渡す。3番目と4番目の教員が別の3種の投票用紙とディストリクト議員を選ぶ政党の投票用紙を、同じような手書きと捺印の後に有権者に渡す。

 手続きを行う教員も慣れてないし、IDカードを見ながら10桁以上もある長い番号を手書きで筆記する作業等はけっこうな時間がかかり、ようやく7枚の投票用紙を手にしていざ投票しようにも、ベランダの端にある投票ブースは一つしかないので、ここでも待たされる。

 ダジャリの母さんの付き添いということで同行を許されて私もブースに入った。「わたしゃ、よくわからないんで、あんたがやっておくれ」と言われて、私がそこに置いてあるスタンプで立候補者の絵柄マークに印をつけたのだが、投票用紙は7枚もあるし、ウルドゥー語で何か書いてあるがわからないし、印刷も雑なので、私でさえ少し戸惑ったほどである。だから、畑仕事とアウ焼きしか知らない女性たちや年寄りたちがちんぷんかんぷんになるのは当たり前で、投票ブースに入ってじーと考えているのか、何をしているのか、1人で5分以上かかる場合もある。

 投票手続きをもっと簡素化して、投票ブースを教室内の角々4カ所に設ければ(男性も4カ所にして計8カ所)、もっとスムーズに行くのにと思ってしまう。「これでは午後5時に終わらず、明日までかかっちゃうよ」と冗談を言ったのだが、案の定、午後遅くなってもちっとも進まず、常に中学校の前の狭い道には200人以上の人がわんさわんさ。急きょ、選挙管理委員の責任者が夜の12時まで投票を延長すると宣言。

 このばかげた工程の中で、ヌーリスタンの村など遠くの人を優先して(当然だが)、バラングル村は近いので、村人が何度行っても「もう少し後で来い」と門前払いされて、しまいに面倒くさくなって行かなかった人もけっこういた。年寄りははじめから諦めて行ってない。


 そういうことで投票は真夜中1時を過ぎて終了し、その後開票されて、結果が出たのは朝方5時。その間、駆り出された教員(日当が出る)、警官、ボランティアたちには食事も出なかったらしい。


●結果は?

 バラングル村では、発電所の運営を担っているザイナの父さんが一般議席に、エリカの父さんと店屋のSKが少数派議席に、シャイバの母さんが女性議席に、他の村のカラーシャたちも青年議席や一般議席に立候補していた。もちろん谷のジープドライバーのチトラ−ル人やヌーリスタン人、定着遊牧民も少数派以外の議席に立候補していた。そのほとんどが文盲で、学校を出た人は1人ヌーリスタン人がいたに過ぎなかった。公職についている人間は立候補できないということで、このあたりの読み書きが出来る大人はたいてい教員か、国境警備隊か、警官か、なんらかの公職についているので、ほとんど必然的に立候補者は新聞も読めない人たちばかりになるわけだ。

 ということではじめからしらけた選挙ではあったが、少数派席に立ったエリカの父さんと、一般席候補のザイナの父さんは、他の候補者に比べると、日頃コミューニティに貢献しているので票は取れると思っていた。エリカの父さんは骨つぎ手当やお灸の技があり、村人だけでなく、ブンブレットやアユーンからも手当を受けにやってくるほど頼りにされている。それだけでなく、山林の無許可の伐採を阻止するリーダーの1人でもある。ザイナの父さんは昨年冬から発電所の運営を請負って、以前より安定した電気を谷中に供給している。

 しかしカラーシャ村では一番大きいバラングル村のまん中に店を出しているSKは、どう考えてもコミューニティの代表者になるような人物ではない。というよりも真反対の人物だ。店の品物は他よりは割高なものが多い。だから私も彼の店を素通りして、村の下手の店で買うようにしている。だいたい、店屋のくせに愛想がまったくない。いつもブスっとして怒ったようにしている。村の女性たちも「よその店で買ったのを目撃されると、次回SKの店で買おうとしても、あるものもないと言って売ってくれない」「こわい」と言い、評判はよくない。

 彼が立候補した理由の一つに、アユーン町の仕入れ先の後押しがある。その仕入れ先はペシャワール方面から期限切れの安い品物を仕入れて、SKにさばかせているわけだ。この仕入れ先はルンブール谷の他の店にも卸しているが、小売り店の売り買いは現金払いではなくツケが多く、店屋はいつだって卸屋に頭が上がらない。卸屋は他の店屋にも「SKに投票しないと、今すぐツケを払ってもらう」とおどし、SKや他の店屋はツケ売りをしている村人たちに同じセリフを言う。

 こうしてエリカの父さんの票はSKと入れ替わっていき、しまいに投票日の前夜に、エリカの父さんが圧倒的に支持を受けていた谷の奥のヌーリスタン村に、10万ルピー以上の現金を持たせた人物をこっそり送り、賄賂を使って票を逆転させて当選し、賄賂をつかませる余裕はまったくなく(しなくて正解)、エリカの父さんは落選してしまった。発電所の運営を担っているニサルゲイは一般議席にトップ当選(1議席多かっただけだが)、女性議席も村の女性が当選した。


 SKだけがおかしいのではなく、カラーシャ有権者もおかしい。エリカの父さんに無料で骨折の治療をしてもらってるだけでなく、裁判で証人に立ってもらうなど大変世話になっているくせに、そういうことはSKからのツケ買いの後めたさや、店の清涼飲料1本でころっと心代わりをする。

 もっと驚いたことは、この春に山林伐採のロイヤルティが政府からルンブール谷の男性全員(赤ん坊も含む)に1人数千ルピーほど渡されるはずだったのが、ヌーリスタン村が権利は自分たちだけにあると言いだし、現在裁判中で、サイフラーさんはそれ以来毎月スワットの裁判所まで足を運んでいる。

 ヌーリスタン人がよけいなことを言わなければ、とっくに夫々の家庭にけっこうな現金がもらえて喜ばしいはずだったのに、そんなこともケロっと忘れて、青年議席に立ったカラーシャには投票せずにヌーリスタン人に入れたカラーシャもけっこういて、青年議席はカラーシャは取れなかった。カラーシャは目の前に出された一時的な物しか見えず、大きな視野で考慮することができない人たちだと再確認した。


 何にしてもこれらの議席は小さなユニオンの54のなかの1議席で、たくさんの賄賂を使って勝ち取るようなものではない。チトラール・ディストリクトの議席だったら日本でいう県議員のようなものだから力はあると思うが、ユニオンの1議員で何ができる(儲かる)のだろうか疑問ばかりが残った選挙であった。でもでも、日本の選挙事情、投票率の低さを思うと、ここの選挙について呆れたり、笑ったりはできないですけどね。


 いつものように写真はFacebookのアルバムに載せますので、そちらでご覧ください。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.921065054583442.1073741849.100000398695802&type=1


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2015年

5月

18日

コシナワズ・カジの逝去

 冬の大祭、チョウモスが終り新しい年が明けると、人々は次にやってくる大きな春祭り、ジョシに焦点をあてる。特に女性たちは服や装身具を新調し、ジョシで披露するわけだから、パキスタンの国民服を着ている男性たちよりも、ジョシに向けての楽しみはことさら大きい。


 長い冬だから、5月半ばのジョシにはまだまだ時間があると思っていたが、あったかなかったかのような3月が過ぎ、4月始めの学校の1週間の春休みも終って新学期が始まり、ドレメッセ一族のお年寄りが亡くなってうちの村はずれで葬式があり、ミシンの修理とインターネットのためにチトラールに2泊3日するはめになり、帰ったらすぐにボンボレット谷の青年が亡くなりその葬式に1泊2日で行き、戻ってからジョシの服を縫い始め、かたわらクラフト隊2人に指示をしながらクラフト作り。そうするうちにキラサーラスの行事も済み、いったん暖かくなっていたのに、4月末に雷を伴った雹混じりの集中豪雨で小規模な土砂崩れがあちこちで起こり、道路も再び壊れてしまい、5月を迎える。


 家の周りの樹々の若葉がいつの間にか成長して生い茂り、部屋に日があまり射さなくなって、どうも部屋が薄暗い。これが夏だったら涼しくてよいのだが、冬が終わったばかりと思っている私にはうすら寒く感じる。そしてとうとう鼻水ジョージョー、くしゃみの連発、風邪を引いてしまい、目のまわり、頭のまわりが靄に包まれたようにぼんやりして調子が今ひとつでない。


 そんな中の5月3日の午後4時すぎ、村の店に小麦の値段を訊きに行った帰りに会ったヤシールの母さんが、「カジが寝込んでいるから様子を見に行く」と言うので、私も一緒に付いていく。

 カジの家には、息子1人、娘2人、山羊の放牧に行っているもう1人の息子さんの嫁さんがいるだけでがらんとしていた。カジは左奥のベッドに寝ていた。熱があるというので濡れタオルを額から耳にかけてあった。タオルをのけて額に手を当ててみると、高熱というほどの熱は感じなかったし、手も握ってみたが熱くなかったので、そんなにたいしたことはないだろうと思った。


 薬は飲んでいるのかときくと、ディスペンサリーの保健医が前日診察にきて、もらったシロップ薬があるがカジは飲まないという。食事もヨーグルトを一匙口にした以外はもう3日何も食べていないという。一応薬を見てみると、なんと腹にたまるガス止めと咳止めのシロップだった。せめて熱冷ましや頭痛の薬だったらわかるけど、よりによって食事もとらない患者にガスのシロップ薬を出すとは、去年かおととしに何千万ルピーもの予算をかけて新しく建て直されたディスペンサリーも、中で働く人間がこれでは一体なんのための公共設備だと腹立たしくなってしまう。


 先日チトラールの薬屋で買った熱の薬をサジャットの家にあげたのを思い出して、サジャットの母さんからそのうちの2錠をもらって、カジの枕元に戻って飲むように言う。もちろんその前にタシーリ(カラーシャパン)を少し食べるように言ったが、「ネ バーム(できない)」とカジは目を開けて、わりあいしっかりした口調言う。「じゃあ、この薬1錠飲もうよ」と勧めると、また「ネ バーム」である。「こんな小さな1錠の薬、すぐ飲み込めちゃうよ。ほら子供みたいに我が儘言わないで飲もうよ」と説得するが、結局あきらめた。あと1日すれば道路が修理されるということなので、チトラールの病院に連れていき、点滴すれば良くなるだろうと思った。


 吹けば飛ぶような小柄でガリ痩せのカジではあるが、生命力は強く、時々4〜5日寝込むことがあっても、そのつど心配するみんなをよそにけろりと元気になり、片方の曲がらない足を引きずりながら杖をついて、村のあちこちを歩きまわるようになるのだ。昨年秋から冬にかけては週に4日神殿で生徒たちにカラーシャの宗教や儀式について講義していたし、つい先日はボンボレットの青年の葬式に出かけ、その足でビリール谷の別な葬式にも参加している。


 そのビリールの葬式から帰ってから調子をくずしてしまったという話で、ベッドで寝ているにもかかわらず、カジは「今、ビリールから帰る途中だ。早く家に連れていってくれ」と寝言ともつかないうわごとをくり返していたが、予知能力もあり、チョウモスにはトランス状態になったりし、妖精まじりとも言われるカジが少し翔んでることを口にしても驚かず、私は部屋に戻った。


 その12時間後の翌朝4時すぎ、トイレで目が覚め、トイレから戻るときに、用務のザルマスとポリスのバッチャーが寝ている下の部屋で話声がする。何事かときいてみると、カジが亡くなったとの知らせが来たというのだ。この展開はまったく予期しておらず、頭が混乱してしまい、死者に会う際に被る正装用の頭飾り、クパースがそんなにしまい込んでないはずなのにどうしても見つからない。しょうがない、クパースなしでカジの家に急ぐ。


 カジが息を引き取ったのは午前3時ごろで、私が行ったときはベッドがベランダに運ばれていて、身体も清められ敬意を示すガウンも着せられてた。すでに大勢の村人が集まっていた。一部、下手の村の親族も来ていた。


 「カジはアキコは来ないのか、アキコはまだかって、そればかり言いながら死んでいったよ」と、息子さんからも、その嫁さんからも言われて驚いた。多分昨日、カジの枕元で薬を飲め、飲めと言ったので、それで朦朧とした中、私の名前が出たんだろうが、「アキコに話がある」とも言ったらしいので、気にはなる。私の家はすぐ近くなのに、家族は私を起こすのは悪いと遠慮して「明日呼ぶから」と知らせてくれなかったのは残念だ。そうでなくともその夜はシュシュットの尾ひれにビーズを付ける作業で12時まで起きていたのに。


カジとの関わり

 コシナワス・カジはカラーシャ唯一の語り部で、カラーシャの先祖の名をほとんどすべてを、本人は4万人の名というが、把握していて、伝えられる先祖の話や歌も数千はくだらないという。宗教的な伝統行事の詳細について村の年寄りに訊ねると、「私よりも、カジんとこに行って訊きんさい」といつも誰もそう言っていた。谷にやってくる民族学者や研究家は必ずカジのところに話を訊きにくる。


 カジはなかなかしっかりしていて、こういう学者や研究家たちからはちゃんと金を取る。汚れた服を着て垢だらけのミイラのような顔で杖ついてやって来られると、最初見たらぎょっとするだろうし、何回見てもやっぱり汚いなという印象は拭えないものの、実際にカジの脳みそから出て来るカラーシャの貴重な話の方が価値があるから、ずーとこのよれよれの格好で通してきた。もっとも、よれよれボロボロの格好は、わしは貧乏だということを強調するための計算も、頭のよいカジのことだからあったかもしれない。


 私たちのNGOは、2002年から2006年までの4年間、カラーシャの伝統的・宗教的な行事、儀礼、歴史を子供たちに継承させていくために、丸山純・令子夫妻と日本パキスタン協会を通じての「美穂子寄付金」の援助で、ルンブール小学校で毎日、学校の授業の前か終了してから30分ほどカジに講義をしてもらい、それを助っ人教員ヤシールにカセットテープに収録してもらうプログラムを組んだ。ヤシールはボランティアだが、カジにはもちろん給料を払っていた。そのうちボンボレット谷のギリシャ人の規模が大きい支援グループが、高い賃金を提示してボンボレットにカジを連れて行ってしまって、私たちのこのプログラムは終了した。


 私たちは前々からカジの話をどうにか形にしようと、部分的にテープ起こしはしているが、カラーシャ語の表示でつっかかっていてなかなか進まずにいる。今年こそはと、カジのチョウモスの話を教員ヤシールと通信大学生マシャールでテープ起こしをしてもらった。それをコンピューターに打ち込む作業を、向こうの村出身でチトラールのカレッジで学ぶ学生に頼んでからもう3ヶ月ほど経つが、パソコンが壊れたり、本人がカレッジの寄宿舎にいる関係で遅れまくっている。先日、その学生の父親にきいたら、「テープ起こしした原稿のカラーシャ語の書き方のまちがいが多くて困っていると言っていた」という。表記法が統一できないのが一番の問題ではある。打ち込み作業が出来たら、写真や絵なども加えて編集して「チョウモスの冊子本」を作って、カラーシャの生徒や学生たちに配りたいと思っている。しかしまだカジに効きたいことがあったと思うのに、こうあっさり逝かれてしまうとは。


カジの葬式

 カラーシャの宗教・伝統文化の最後の大物担い手であったカジの葬式は、ボンボレットからビリールからたくさんのカラーシャが参列した。カラーシャだけでなく、改宗したカラーシャ、ヌーリスタン人、チトラール人とムスリムたちもやってきた。道路が壊れてなかったら、もっと多くの人間が集まっただろう。


 葬式1日目から2日目の午後までは、徹夜でルンブール谷の住人がカジのまわりで歌い踊った。1日目の夕方は小麦タシーリ(平たいカラーシャのパン)とクインダ(塩付けの発酵チーズ)が集まった人々と谷の全戸に配られ、2日目の朝にはなんと牛5頭分の肉、カイー(肉汁に小麦粉を入れたもの)、プレチョーナ(バターを精製したもの)そして小麦タシーリが斎場の人々と谷の全戸に配られた。


 2日目の午後遅く、ボンボレットとビリール谷の弔い客が到着。一部のボンボレットの人たちは、特別に太鼓を叩きながら踊りながらやってきた。これはよほどの人物でなければ行われない。10数年前に伝統行事を司っていたバラマン・カジの葬式の時に、ボンボレットの人たちが太鼓を叩き踊りながら斎場にやってきた記憶がある。

 

 2日目と3日目の朝には小学校の生徒たちが教員の許可を得て、カジのベッドの周りでバズム(両手をあげて1人で踊る)を踊った。これも通常の葬式では見られないことだ。「カジの周りで生徒たちを踊らせよ」という声を、下流に住むある女性が夢で聞いたからなのだが、これもカジが生徒に講義をしていたから相成ったことであろう。


 2日目の夕方は小麦タシーリとパンディール(保存チーズ)が配られた。これは臭いがきつ過ぎ私は食べられなくて、よそにあげた。3日目の朝、親族たちが何度もバズムを踊った後にカジの遺体は埋葬された。その後、山羊30数頭分の肉とカイーとプレチョーナとタシーリが弔い客にもてなされ、谷の全戸に配られた。さらに斎場にいる人たちにはワインももてなされた。


 3日目の夜は親戚や村人がカジの家や周辺の家に集まり、泊まり込んでカジを偲ぶ。この夜は1頭の山羊が捌かれた。4日目の早朝、墓地にパンとチーズのお供えをする儀礼が行われた。私も早起きして参加した。この儀礼の後にカジの家に戻って、親戚の男性たちは頭と髭を剃る。3頭の山羊がさらに捌かれて、参加者みんなで食べて、葬式は終わった。これで女性たちは髪を結ったり、沐浴したりできる。


 しかし、7日間は親戚や村人が遺族のもとにタシーリやチーズ、あるいは油ご飯などの食事を持って訪ねて、そこでチャイを飲んだり、食事したりとだらだら続き、言い方は悪いけど、これは暇なカラーシャだからできる習慣だと思う。


 この葬式に費やされた費用は金額にすると、牛5頭で20万ルピー、山羊およそ40頭で80万ルピー、チーズ、プレチョーナ、小麦を加えると150万ルピーはくだらないだろう。私の台所には食べ切れずに山盛りになってひからびたタシーリや、これは保存できるからいいけどクインダやプレチョーナが残っている。せっかくの肉もカイーも、結局食べ切れず腐りそうなので犬にあげてしまった。犬も腹一杯という様子で、普段だったらご馳走のカイーも見向きもせず、しまいに胸焼けで草を食べてる始末だ。あまりまくったタシーリは牛の餌の鍋に放り込まれる。私も腹痛を起こして調子を崩してしまった。


 葬式の度に、これだけの費用を死者の生前に治療や健康管理に使ったら、死者ももっと長生きできただろうにとどうしても思ってしまうのは、私が日本人だからだろうか。


 いつものようにFacebookで写真を掲載しています。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.910128085677139.1073741847.100000398695802&type=3

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2015年

4月

14日

何してるって?クラフト作りですよ

 冬だ、冬だと思っているうちに、あれれ、春分の日になり、それまで1時すぎると目の前に迫る山の向こうに姿を消していたお陽様が、3時半ごろまで日陰の村と言われるバラングルを暖かく照りつけてくれるようになった。すぐに桜に似たアンズの花が咲き始め、その後にりんごや梨の白い花が満開になっていく。やっぱり春はいいな。エネルギーが満ちあふれている。村の人々も上流、下流それぞれの畑に行って、石拾い、耕作作業、種まきを開始する。それにしてもねえ、もう4月になったとは信じられないよ。


 私が何をしているかと言えば、冬の間の1月、2月は電気がついてる間はパソコンで画像や動画の編集をしたりして、昼食後、下の図書室が開く時間になったら、図書室のストーブの横の机に座って、子供たちが声をあげて本を読んでいる中、時々「ほら、うろうろしないで座って読書をしなさい」など注意しながらも、黙々とクラフト作業をしていた。


 ハンディクラフトを作るといっても、クラフト作りに携わる女性たちを掛け声かけて呼び集め、じゃんじゃん作っても(といってもしれた数ですが)、この数年はパキスタンの治安事情で旅行者が来ない(来れない)ので、売りようがない。このクラフト活動は私個人が行っていて、女性たちの賃金は私が支払っている。数年前に一時帰国する際に女性たちもお金が必要だろうと、前金を払ったのがまだ一部回収できないでいたりする。


 賃金、材料費などから割り出してクラフトの値段を決めて、その2割を「AKIKOの家」の活動費として上乗せして総合的な値段にして売っているが、私自身は、クラフトのデザイン、材料調達、見本作り、手まわしミシンの管理・修理、女性たちへ指導・指示、出来上がった品物を洗い、クラフトの説明や値段の札作り、帳簿の管理、販売のセッティングなどなどに費やす手間や時間を考えると、時給何十円ぐらいにしかならないのです。とほほ。


 それでも糸や布を織り、縫い作り上げる、あるいは創り出す作業は嫌いではない、というよりむしろ好きな方だし、これをやらないとなると、他にはちょろちょろ写真や動画を撮り編集するくらいで、自分の表現活動が狭まる(というほどのものではないけれど)。日本で同じようなクラフト作りをやることは環境的にまず無理ということもあって、冬のバラングル村ではクラフト作りに精を出しているわけです。


 5月の春祭りには、村のサイフラー・ゲストハウスにイギリスからのツアー客の予約が入っているときいたので、ツアー客に買ってもらうために、3月からクラフト隊2人を2階の私の部屋に呼んで、コースターなどの売れ線の物を縫ってもらっている。私はそばで指示しながら、織り紐を縫い付け、まわりに模様をあしらった〝ぺったんこケース”を作っている。他に、数人の女性たちに伝統的織り紐、チトローヤックや模様織り紐を織ってもらったりしている。


 それにしても、物価の値上がりには驚くばかりだ。数年前、中国製ビーズ一袋450グラム入りが確か70ルピーだったのが、今は200ルピー。東欧製のビーズも同じ量でなんと800ルピーにもなっている。カラーシャ女性の民族衣装の黒い布、ミシン糸や毛糸も平気で2〜3倍高くなっている。人件費もそうなので、女性たちの賃金も高くなる。だから当然クラフト製品も高くしなければならないわけだが、外国人の感覚からすると、発展途上国の土産物は安いと思い込んでいるので、私たちのクラフトは高く思えるだろう。質の高さも以前よりも、他よりも断然良くなっていることを理解してくれる客だったら、喜んで買ってくれるはずだが、一般の外国人旅行者は「パキスタンの山奥の製品は質が悪かろう、値が安かろう」と上から目線で見るので、売る方もなかなか売りにくいのです。


 もし、私たちのクラフトに興味をお持ちの方は、メールでお知らせ下さい。日本に在庫が少しありますし、今回の一時帰国で持てるものは持っていきますよ。

 

 いつものように、写真はこちらでご覧下さい。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.921749804514967.1073741851.100000398695802&type=3



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2015年

3月

24日

ああ、セキュリティ

2015年3月20日

 2009年頃、パキスタン国内で台頭して来た武装集団、テリーキー・タリバン・パキスタン通称TTPがスワットを占拠して、住民全員が避難して国内難民となりました。アメリカの軍事支援のもと、パキスタン政府軍がTTP掃討作戦を行われ、その後スワットから武装集団を追い出すことができ、住民も戻っている。


 しかしTTPはいなくなったわけではない。その間、「女性にも教育を」と声を上げていた少女で、スワットに住んでいたマララが下校途中でTTPの一員から狙撃されて、そのまま手術と治療のためにイギリスに運ばれた。この事件がきっかけで世界に注目され、彼女は昨年ノーベル平和賞を受賞している。


 パキスタンの治安は悪くなる一方だ。(チトラール地方はそうではない。)TTPが台頭してから、カイバル・パシュトゥン・クワ州の北部のスワット、ディール、チトラール地方で8000人の臨時警官を雇用した。それまでルンブール谷には警察の派出所もなく、1人の警官もいなかったのだが(ルンブール出身のカラーシャ警官はいたが、谷の外で任務についていた)その時4人の臨時警官が採用された。AKIKOの家のスタッフだったJSもそのうちの1人である。さらに、うちの谷にも駐在所が設けられて、現在20人ほど、アユーンから派遣された正規の警官がいる。


 警官たちが、実際何をしているかと言えば、まあ、外部から来た人間のコントロールが一応の任務らしいが、旅行者が来なくなった(来れなくなった)現状では、ほとんど何もしていない。駐在所の長(ムスリム)はカラーシャの焼酎をせびったり安く買ったりして毎日酒浸りという話をきいたが、都市部のテロ活動が増すにつれて、警官の給料は上がっていっているので、飲んだくれの長は学校の教員の倍もの給料をもらっているという。


 その後も、カラーシャの中で(女性を含む)警官が次々と採用されている。女性警官に関しては、チトラール地方のムスリムの女性は警官になり手がないので、顔を隠さず、よその男性とも話ができるカラーシャの女性が採用されるということらしい。今ルンブール谷には6人の女性警官や警備官がいる。大半が谷の外で勤務している。


 私は地元民と同等の扱いのIDカードを持っているので、護衛は不要であると訴えているけど、どうしても顔が外国人だから危ないということなのか、チトラール警察長が勝手に4人の警官を私の護衛につけている。といっても昼間は朝10時くらいから昼の2時ごろまで向こうの村のカラーシャ女性警官1人がやって来て、うちの近所の家に居座っていて、私がうちの村から出てよその村を訪ねたりするときに同行するだけのこと。あとの3人はうちの村の者で、そのうちの1人が夜間私の部屋の真下で銃を枕元に置いて寝ているが、みんな警官の制服を来てるわけではないし、大家族の一員みたいなものなので特別に護衛されて感じはしないから、いてもいなくてもいいという感じである。


 しかし4人分の給料はどこから来るんだろうと思ってしまう。うち3人は臨時警官なので正規警官ほどではないにしても、教員の給料ぐらいはもらっている。JSは私のとこのスタッフ時代は半分ボランティアで給料も少なく(それでも当時は給料取りがあまりいなかったので、もらえるだけましだったと思う)、いつもきゅうきゅうだったが、臨時警官になってから、私の仕事もなくなり暇ができ、家を増築するからと山林の木を伐採して、その半分またはそれ以上を横流しして、給料以外にも金儲けをして豊かになり、現在はトタン屋根の木造のなかなかモダンな大きな部屋を2部屋建てている。

 

 村人に金が入りまわっていくのは悪くはないとは思うが、それなら、おととし夏に土石流で跡方もなく流された小学校を急いで建てて、政府からの教員、たった2名を(私たちの方からヤシールを特別教員として小学校に派遣しているので実際は3名)あと数名増やすなど、もっと実になる予算の使い方をしたらいいのにと思わざるを得ない。


 その上に、谷にはパキスタン陸軍の兵士が4〜50人駐留している。兵士なのでさぞかし活動的だろうと思うと大違い。普段は即席兵舎の中で何をしているのか、外には出てこない。彼らは都市部から派遣された人間だからか、山の生活を知らない。ストーブに薪を焚く方法もわからず、火が弱まるとすぐに薪の上に灯油をかけるという。わざわざ遠い平原部から車で持ってきた貴重な灯油をじゃんじゃん使わなくとも、火付け用の油が多い松の枝木もここにはたくさんあるのに。


 兵士たちはこの谷はパキスタンに属しているので、山林の木、畑も政府のものだ。兵隊はお前たちのために駐屯してやってるのだから、すべてに自分たちを優先しろと言うのだ。


 我々の発電所の水路が決壊したり、水路に砂がたまってで発電ができなくなると、大騒ぎをして早く修理せよと、オペレーターや村の男たちを責め立てる。いい体格の兵士たちは少したりとも手伝おうとせず、命令するばかりだ。もちろん電気代などは払わない。(駐屯経費に電気代も含まれているはず)この発電所はパキスタン政府のものでなく、日本の草の根援助で、えらい思いをして建てたんだぞと言いたいところだが、私は極力目立たないようにしているので言う機会はないが。


 先日はこんなことがあった。2年前サイフラーさんを中心とした上流の中腹の4〜5家族の耕作地のための水路が土砂崩れで決壊した。このため耕作地の果物の樹々が枯れてきたので、決壊した水路をつなぐために、サイフラーさんがなけなしの金、3、4万ルピーをはたいて太い水管を設置した。サイフラーさんのゲストハウスはパキスタンの治安が悪いために旅行者がめったに来なくなったが、5月の春祭りのときだけはツアー客がくる。そのときの売上げ金で水管を買ったという。


 その水管を兵士たちが自分たちの兵舎に水を引くために、聞きもしないで持っていったという。あれはうちらのものだと言いにいくと、「あれはきっと政府が設置したものだろうから、俺たちのものでもある」と言う。「政府のではない。個人のものだ」と言っても、「お前らは嘘をついてる、あんな水管を個人が買うわけがない」とつっぱり、怒り、取りつく島がなかったという。陸軍の上の方に訴えると言ってようやく水管を取り返したらしい。


 兵士たちが国境線で一生懸命がんばっているのなら、地元の人たちもありがたいと思うだろうが、頻繁に運ばれてくる兵糧で、食っちゃ寝して、地元のもの(果物、作物も)を平気で失敬し、いばっている兵士たちに対しては迷惑ばかりで、出て行ってほしいというのが本音のようだ。


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2015年

3月

24日

あれあれもう3月

2015年3月4日

 ずーと暖冬で雪もほとんど降らなかったのですが、2月の終り頃になって天気がくずれ、最初は雨だったのがようやく思いだしたように雪になり、山腹も冬景色になりました。雪は一時的にはきれいですけど、春の雪は解けやすくて道もびちょびちょ、そして一番やっかいなのが、屋根からの雨漏りです。


 12月末に、2階の屋根の土を除けて、ふるいにかけた土をうすく乗せ、上にビニールシートを、再びふるいの土でサンドイッチにし、最後に普通の土を被せる作業をしていたので、2階の部屋は屋根のふちから天井板を伝ってくる雪解け水の漏れが少々あってもたいして問題ではなかった。やれやれ冬の間に屋根の修理をやっていてよかったと喜んでいたら、1階の図書室の方が大々的な雨漏りとなり、こっちをやればあっちというもぐら叩きの繰り返しです。それで本を移動し、敷物もあげ、図書室は1週間ばかり使えなくなり、3月から学校が始まったので、そのまま図書室活動は閉鎖となりました。


 その代わり、この冬のチョウモスをはじめとした行事を動画や静止画に撮って編集した映像がようやく出来ましたので、機会を見つけて大人たちを呼んで見てもらいたいと思っています。もちろん、映像の上映の前に、村の問題点を話し合う計画です。


 雨や雪が降ると、お決まりの道路の決壊です。今回の雪でもう10日以上車が通れなくなっています。天気さえ良くなれば、2、3日で道路は修復するという話ですが、天気がなかなか良くなってくれません。


 画像はファイスブックでご覧になれます。

 https://www.facebook.com/akiko.wada.5070


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2015年

2月

13日

ガラムチャズマのお祝い

1月末から2月初め、チトラールの町から車で2時間ほど北にあるガラムチャズマの町に、ここに住む家族から招待されて、イスマイリ派のお祝い行事パタックに、カラーシャの親戚や村の人たちと2泊三日で出かけました。ガラムチャズマというのは温泉という意味の町です。もちろん温泉が出ています。

前回のように、Facebook のアルバムをリンクしましたので、写真をご覧ください。


https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.864883550201593.1073741846.100000398695802&type=3



その途中で寄ったチトラールでインターネットがつながったので、ちょっとメールやニュースをチェックしましたら、イスラム国に拉致された日本人お二人が処刑されて、日本では大騒ぎになっていました。


こちら、チトラール地方はそんなニュースも伝わらず、相も変わらずのんびりした雰囲気ですが、ここから中近東はそんなに遠いところではないし、アフガンのタリバンもたやすく影響を受ける可能性が大なので、重苦しい気持でおります。後藤さんは恵まれない子供たちのために世界を駆け回って取材されていたとききました。こういった人道的な活動をしている人物をどうして処刑するのか、ほんとうに腹が立ちます。


しかし、「日本国民を守る」と強くおっしゃっていた安倍首相さんが、人質にされた日本人を守るどころか、「テロには屈しない」と逆効果の宣言をしたり、イスラム国が最も嫌うイスラエルを訪問して仲良く握手するところをアピールするなど、愚の骨頂的な言動のされたということの方が、イスラム国家に住む日本国民としてはもっと危惧してしまいます。

いったい、日本はどうなっていくのでしょう。


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2015年

2月

13日

ボンボレット谷のチョウモス

ボンボレット谷のチョウモス祭のピーク、超聖なる期間に、20年ぶりぐらいに行ってきました。

ボンボレット谷は前から新しい風潮を受けやすい土地柄ではありましたが、カラーシャの生活が変化しているだけに、チョウモス祭りも何か形だけ行っているようでした。

カラーシャの伝統的なものの中で過ごすべき超聖なる期間でも、テレビを見たり、携帯電話をチャカチャカやっていたりで、昔の荘厳なる雰囲気はほとんど感じませんでした。でもこういう現象はカラーシャ谷だけでなく世界の少数民族の社会に起こっていることでしょうから、ボンボレットのカラーシャだけを咎めることはできません。


前回のように、Facebook のアルバムをリンクしましたので、写真をご覧ください。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.864807240209224.1073741845.100000398695802&type=3


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2015年

1月

20日

ルンブール谷のチョウモス

写真で2014年のチョウモスを紹介します。ここのブログではフォトギャラリーを使えなくなったので、私のFacebookのアルバムでご覧になってくださいね。キャプションもついてます。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.853945207962094.1073741844.100000398695802&type=3

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2015年

1月

20日

2015年 明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

そして


今年こそは

日本および世界の人々が

安心して楽しく幸せに暮らせるようになる環境作りの

スタートの年になるよう

パキスタン辺境のルンブール谷から祈っています。


2015年1月


下記の活動便りの挨拶文もお読みいただければ幸いです。


 新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 パキスタンの治安の問題のためにここのところは、アフガニスタン国境からタリバン/過激なムスリム原理主義者が国境越えしにくい雪の季節のみバラングル村で暮らすというパターンになっていて、一年の両側がカラーシャでの生活、間が日本の生活という二重生活を送っています。

 全く違った生活体系なので、人生を二つ体験しているようで得をした気分ではありますが、そろそろパキスタンの辺境地と日本の九州を行ったり来たりするのが、面倒でもあり、飽きてもきています。気がつけばけっこうな齢になっていますしね。

 新年に向けて願うことは、まず平和です。アフガニスタン、パキスタンが平和になれば、以前のように一年を通じて村で暮せます。二つ目はルンブール谷へのジープ道路の整備です。一昨年、昨年の土砂崩れで、道路は非常に危険な状態ですが、まったく修理されていません。現実的には、タリバンよりも道路のリスクが百倍高いと言っていいくらいです

 一方でカラーシャたちの生活は確実に向上しています。(警官の)雇用が増え、前政権(パキスタン人民党)のヴェネズィール女性基金から多くの家庭が毎月支給金をもらうようになったのが大きな理由かと思えます。しかしそういう支援金からはずれている運悪い家庭もあり、貧富の差もまた開いてきているようにも思われます。「AKIKOの家」でさえ、周囲に合わせて従来の土の屋根にしたのに、今では村で新築する半分以上の家がトタン屋根です。(トタン屋根はコストがかかるが、雨漏りしないし、雪かきも不必要なので、こちらでは一種のステイタスになっている)

 隣のボンボレット谷では、厳粛だったチョウモス祭りの超聖なる期間のたった三日間でもテレビを見る家が多くありました。若者たちは祭りの歌を歌う横で、携帯電話を耳に当てて話をしています。

 昔をなつかしがる年代に自分がなったので、こういった変化をより強く感じるのかもしれませんまあ、成るようにしか成らないので、ぶつくさ言うよりも、これからはカラーシャ独特な文化を残していく活動、そして生活・行事の記録および動画の編集などに力を入れていきたいと思います。    


ルンブール福祉文化開発組合代表/「AKIKOの家」運営担当:わだ晶子

郵便宛先:c/oTourist Information Center, Chitral, Khyber Pakhtunkhwa, Pakistan                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

     (郵便の宛先の住所が変わりました。前の住所でも届きます)

Eメール:akkowa25@yahoo.co.jp

ホームページ・ブログ: http://kalashapakistan.jimdo.com/


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2014年

12月

10日

語り部プロジェクト

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2014年

12月

10日

テントの小学校

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2014年

12月

10日

ルンブール谷にたどり着く

12月2日

 

 ラハマンフセインさんの弟さんが手配してくれた乗り合いの自家用車で、フロントシート(パキスタンの乗り合いの車では助手席が一番良い席と考えられている。しかしここに2人座るわけで、1人で座ると2人分の料金を払わねばならない)に乗ってチトラールへ向かう。ラワリ峠は12月にしては雪が少なく、四輪駆動でなくともなんなく通れた。アユーンでバラングル村のダットサンが待っててくれて、夕方には無事にルンブール谷のわが家に到着。

 

 しかし、アユーンからカラーシャ谷に入る道路がまったく修理されていないのには驚いた。特にルンブール谷側は以前のまま何も手をつけられていないので、さらに危なくなっている。こんな道を毎日何台ものボロ車がよく通るよ、と思ったら、けっこう事故は起こっているということ。もうすぐ雪が降るだろうから、さらにさらに危険度が増すだろう。そうなりゃ、わたしゃ、谷から出たくないよ。


この夏は新築ラッシュ

 うちの村は景気がよいのか、3軒の家が新築、一軒は2階に増築された。そのうち3軒は辺境パキスタンでは高価とされるトタン屋根葺き。トタン屋根は雨漏りしない、そして雪おろしをしなくてよいというメリットもあるが、夏は暑く冬寒いときくし、だいたい日本人の眼には、トタン屋根はどうも安っぽく見えるし、村の多くの土の屋根の中で妙にキンキラ目立ち、村の景観も損なうということで、「AKIKOの家」でさえ、伝統様式を守るということで、土の屋根に甘んじているのに、周りの家はどんどんトタン屋根になっていく。


写真は下をクリックして私のFacebookのページでご覧くださいまし。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070

 

 

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2014年

12月

10日

ディールで民家に1泊

 12月1日

 ペシャワールに3泊して、バラングル村出身の警官兄弟のツテで副監察長官から書いてもらった手紙(アキコ・ワダはチトラール・ルンブールにある自宅に帰るパキスタン政府のIDカード所有者だから、陸路を通過させるように。何かあったら副長官に電話するべし、という内容)とニサール上議院議員の手紙を持って、12月1日早朝にハイヤーでペシャワールを出発して午後2時半頃ディールへ到着。途中の道は以前ほど警戒ものものしくなく、1度だけIDカードを見せただけだった。

 

 ディールからできればその日にラワリ峠を越えてチトラールに行きたかったが、暗くなると峠の道は危ないので、ディールに1泊して翌朝出発することになった。以前、ディールに泊まるときはディール・ホテルかアルマンズール・ホテルに泊まっていたが、ディール・ホテルはNGOに貸切りされていて、アルマンズールはなくなってしまっている。それで安全でしかもびっくりするほど高くないホテルを、確か、2、3年前にAKIKOの家を訪ねられた「ディールで何かあったら、ぜひ連絡しなさい」と名刺を下さっていた州議員の方にきこうと思ったが、あいにく彼の名刺は村の私の部屋にあって名前も思いだせない。

 

 それでバラングル村のヤシールにディールで誰か知合いはいないかときいたら、バザールの中心にあるラハマンフセインさんの弟の店に行くよう手配してくれた。えっ、ヤシールとどうやって連絡とったのかって?実は、ルンブール谷にようやく携帯電話のアンテナ塔が建ち、携帯電話が使えるようになったのだ。これはグッドニュースといえる。

 

 ヤシールはテントの仮教室で授業をしながら、ディールの店の人たちと連絡とったり、私にも途中途中「今どこだ?問題はないか?」と電話してきてくれた。日本だったら、教室で勤務中に外に何度も電話するなど考えられないことだが、こういうときはパキスタンのルーズでゆるいシステムは多いに助かる。でもそもそも、ヤシールを教育促進活動としてサポートしているのは私たちなのだから、私の道中を援護するのも彼の仕事のうちだともいえるわけだが。


 ヤシールの知合いのカーペット屋さんに行ってチャイを飲んでから、ホテルでなくて、ラハマンフセインさんの家に泊めてもらうことになった。ヤシールはディールの大きな建設業を営む人を紹介するといっていたので、てっきりラハマンフセインさんがそうだと思っていたが、よくよくご家族の方々に聞くと、ラハマンフセインさんは何と今、ルンブール谷にいるというではないか。お店で対応してくれたのは弟さんと息子さんで、ラハマンフセインさんは大金持ちの建設業ではなくて、ルンブール谷でクルミや山羊の皮を買い付ける商売をしている人だった。ちょくちょく谷に来るので、ラハマンフセインさんが私を知っていて、彼自身が自宅に泊めるようにヤシールに指示したそうだ。

 

 何にしても、私はよそのお家に世話になるのが嫌いではなく、むしろいろんな家族の生活が垣間みれておもしろい。「おもてなし」に関しては、東京オリンピックでわざわざアピールしていた日本人よりももっともっと昔からパターン人(パシュトゥーン人)はもてなしのチャンピョンなのだ。

 

 ルンブールと同じぐらい寒いディールの高台に建つお家に車で案内してもらって、アユーン出身の奥さんやご家族に出迎えられ、部屋に案内されて、プロパン・ガスストーブの火がつけられた。そしてチトラール地方で使われるこたつ用のテーブルがストーブに置かれて、布団が被せられた。こたつの中にガスストーブが燃えてる状態なのだ。「えー!これは危な過ぎですよ。火事とガス中毒のダブルリスクだよ」と騒いだが、いつもやっているから皆さん平気な顔をしてらっしゃる。

 

 こたつに足を突っ込み、テレビを正面にした奥の壁際の特等席に、タキヤ(肘掛け用の丸長いクッション)を2つ鏡餅のように重ねた前に私は座らされ、毛布を被せられて全く動かない状態で、熊のぷーさん人形みたくになっていた。夕食の時もお湯を持ってきてくれるんで動かないまま手を洗い、こたつの上に私のリクエストのサブジ(野菜カレー)3種とごはん、ナンが並べられ、夜寝るときにようやくトイレと洗顔のために立ち上がったから、4、5時間は1歩も動かなかった。

 

 トイレは下にあった。どういうわけか扉がなく薄暗いので、私がこわがると思ったのか、ラハマンフセインさんの娘さんが壁のすぐ向こうで立っていてくれていたので、こちらはお腹が張って、ガス(おならという人もいる)を体外に出したかったんだけど、それもできず、家族部屋のチャルパイの布団に入ってから腹痛になった。がまんできず、夜中にこっそりかくれて(また、娘さんに付いてこられないように)トイレに行けたので、問題は解決したが。


写真は下をクリックしてFacebookで見てくださいね。

https://www.facebook.com/akiko.wada.5070

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2014年

11月

29日

やっぱりPIA(パキスタン航空)は好かん。

11/28

 朝、起きて窓の外を見たら雲がいっぱい。ルンブール谷のヤシールから電話があって、向こうは少し雨が降っているという。ボンボレット谷のカラーシャ兄弟たちにも電話したけど、やはり雪まじりの雨が降っていると言う。しかし、PIAはわざわざ私の携帯電話に「今日のチトラール行きのフライトは飛びますよ。良い旅を」と前向きのメッセージを送ってきた(これまでなかったことだ)。

 ほんとうに飛ぶのだろうかと思いながらも、PIAが飛ぶというので、価格が規定されていて信用でき、車内もきれいなハイヤーで空港に行った。(タクシーだと、メトロバス工事やガソリン代暴騰などの理由をこじつけぼられてハイヤーより高くつく)空港でのチェックインも終え、待ち合い室で待つこと1時間。

 その間もカラーシャ谷から電話が入るのだが、天気は悪くなっているという。だいたい、チトラール地方で朝方天気が悪かったら、その日回復することは非常にまれなのだ。今日のフライト時刻は午後1時近くだから、早朝にチトラールで雨が降っていれば、昼すぎにはさらに天気は悪くなるだろうから、今日は欠航だという決断をどうして早めに下せないのだ。

 いつもはちょっと風が吹いても、雲があっても、何の理由がなくてもすぐにフライトを欠航させるのに、今日は乗客に無駄な期待を持たせ、ハイヤー代1000ルピーをどぶに捨てらせて、空港まで呼び込んだ。出発時刻の少し前にようやく、ウルドゥー語と英語でたった1回、欠航のアナウンスがあった。以前欠航のときは、PIAスタッフが待ち合い室をまわって、「チトラール行きの乗客はいませんか?欠航になりましたから、荷物を受け取って、こうしなさい、ああしなさい」と教えてくれていたのに、今日はそんなこともない。

 私の方からPIAのユニフォームを着た男性を探して、「私のフライトが欠航になったけど、どうしたらいいの?」ときいたら、元きた経路を戻って、国内線到着に行って、自分の荷物を受け取りなさい」と教えてくれた。その通りにして、国内線到着の荷物受け取り場に行こうとすると、入口で警備員に止められた。「フライトが欠航になったので、自分の荷物を取りに行くんですよ」と言ったら、「手に持っている荷物は持って入れない」と言われた。

 手に持っている荷物というのは、先日購入したキラン図書室用の本と、ヘルガさんからいただいた野菜と豆の袋なので、警備員が座っている椅子の隣りの空いた椅子に置こうとしたら、ここには置くなと言うのだ。「じゃあ、どこに置くのよ」と言うと、「外に置け」という。まあ、外に置いてすぐ盗まれるようなことはないとは思うが、しかし、この警備員、なんちゅう態度だ!と怒った私の血圧は上昇し、近くをうろついているPIAスタッフに抗議。結局そのスタッフが私の荷物タッグを持って中に入って、荷物を取ってきてくれて解決はしたものの、相変わらずのPIAのサービスの悪さに、腹が立ちまくった。

 最後のとどめは、今回イスラマバードで世話になったヘルガさんから「チトラール到着おめでとう」の電話が夕方かかってきた。インターネットでのPIAフライト情報では、「今日のチトラール行きの飛行機は無事に着陸した」とあったそうだ。「何冗談を!私はまだイスラマバードにいるよ」と言ったら、さすがにヘルガさんもあんぐりと開いた口が閉まらない様子だった。「いつになるかわからないけど、無事にチトラールに着くよう祈ってるよ」とヘルガさん。


11月29日

●ペシャワールへ

 ということで、再びイスラマバードに戻るはめになったが、うまいぐあいに、ニサールさんの弟さんがイスラマバードからペシャワールの家に帰るというので、夕方まで彼を待って同行することにした。理由の一つは、彼らの高齢のご両親がいつも「アキコはどこにいるのだ?日本か?チトラールか?」と訊いているというので、会えるときに会っておこうと思ったからだ。ペシャワールに夜の10時半について、ご両親に対面できたが、話にきいていたよりは弱ってらっしゃらず、ほっと安心する。


 しかし、肝心な自分のことを考えると、ううむ、決断しにくい状況である。ペシャワールからチトラール行きのフライトは週に1便、昨日欠航になった便(イスラマバードーペシャワールーチトラール)だけで、次の便は来週の金曜日まで待たねばならない。それでも確実に飛ぶとわかっていれば待ってもいいのだが、1週間待った挙句にまた欠航になったら、冬に向かって状況は悪くなる一方だ。

 多分陸路で行くことになるだろうと思いながらも、ラワリ峠は雪になっていて、車の峠越えが困難になっているという。現在外国人はNOCという許可証を入手しない限り、陸路を通ることは禁止されている。IDカードを持っていて、チトラール地域に住んでいる私の場合はその許可証は不要なはずだが、途中に待機する警官たちは、それを理解せずに、足止めを食うのはこれまでの経験でわかっている。故に陸路を通れる書類か、NOCを発行してもらわないといけないだろう。と、何にしてもさっさとはいかない。ハードルは高い。


 ほんとうに、「どうして昨日、チトラールの天気を悪くしたんですか」と天の神様に文句言いたくなるのう。


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2014年

11月

29日

国会議事堂と天皇誕生日の祝賀パーティ

 ペシャワールで世話になっている家族の1人、ニサールさんがいつの間にか国会の上院議員になってらして、11月26日には国会議事堂を案内してもらった。テレビでよく見る、国会が開かれる上院と下院の議事室以外にも覚え切れないほどのたくさんの部屋があって、様々な人たちが働いていた。(ほんとに働いているのかはわからない)しかし、3階食堂のガーデンテラスはうす汚れていてゴミが落ち、それをねらってカラスがたくさん飛び回り、猫までいたのには驚いた。(どうやって入り込んだんだろう)


 翌日、大の日本びいきのニサールさんが招待されていた日本大使館主催の天皇誕生日祝賀会に、事前に許可を得て私も同行することになった。たいへんな数の招待客にまずびっくりしたが、その中にジャベッドさんや、先日お会いしたミラクルペーパーのえりさんを見つけたりして、ほっ。なんといっても、和服姿の猪俣日本大使ご夫妻が人気の的で、ご夫妻と一緒に写真を撮りたがる皆さんに笑顔でサービスされていた。実は私も一緒に「はい、パチリ」をお願いしたのであった。


https://www.facebook.com/akiko.wada.5070/media_set?set=a.825584904131458.1073741842.100000398695802&type=3&uploaded=5


 ブッフェのディナーはパキスタン・フードが主だったが、鮨、天ぷらもあった。そしてビール、シャンパン、日本製ワイン、日本酒などの飲物もあったが、あまりにも人が多くて圧倒され、私はお皿に鮨が5貫のったのとサラダを少しとプリンを食べて終り。日本酒が飲みやすくておいしかった。


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2014年

11月

28日

キラン図書室用の本を購入

 一昨日、国立書籍財団(National Book Foundation)で、キラン図書室用の本を購入した。田島伸二さんが率いる国際識字文化センター・イスラマバード支部の代表ショーカット・アリさんがその財団で働いてらっしゃっていて、いつも割引してくださるのだが、今回は読書会のメンバーになると55%の割引になると教えてもらい、5000ルピー分の本や絵本を半額以下で購入できた。感謝、感謝。


 明日のチトラール行きのフライトもコンファームできたから、明日の天気を祈るのみだ。

  写真はこちらをクリックしてご覧下さいまし。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=824757644214184&set=a.100902149933074.1928.100000398695802&type=1&theater

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2014年

11月

26日

どこもかしこも空気が悪すぎる

  今回旅してきたところは、べトナムのフエ、ホイアン以外の都市の全部が、排気ガス、通りに散らかったゴミなどで空気が悪くて、私は今月はじめから喉をやられ、そして鼻水、熱、と風邪の症状が出てしまった。埃と排気ガスで街中全体が灰色に化したカラチでは風邪をこじらせて副鼻腔炎になってしまい、それがイスラマバードに来てからも引きずっていて、なかなか完治しない。

 パキスタンの首都イスラマバードは50年ほど前に造られた計画都市で、他の都市とは違い、街路の緑の並木が並び、洒落た大きな邸宅ばかりが建つ、別世界の空間だった。以前は。それで、イスラマバードに来たら少しは空気がいいから、副鼻腔炎もすぐに治るだろうと期待したわけだが、いやいや、なんちゅうことだ。

 今、イスラマバードではラワルピンディとを結ぶメトロバスの工事が行われていて、市内はまっふたつに掘り返されていて、関係ないと思われる場所までもついでに掘り返され、いたるところに土埃が舞い上がり、緑の並木もどんどん切られて、残った並木も埃だらけでみじめな姿になっている。イスラマバードのすぐ北側に横たわるマルガラヒルも市全体から立ち上がる土埃のために、その姿が見えなくなってしまった。

 工事中のために、さらに交通渋滞はひどくなり、おまけにあっちに迂回こっちに迂回させられて、どんどん目的地から離れていくはめになる。車が増える一方で、市内に駐車場というものがほとんどないので、みんな路上駐車する。出勤時や学校の終了時にはまったく車が動かない状態になる。こういうことを解決するために、メトロバス計画が立ち上がり、工事がされているわけだが、全ルートをいっせいに掘り返しているようで、なんだか計画性がないように見える。来年1月完成予定らしいが、まあ絶対無理だろうが、完成したあかつきにはどこまで交通渋滞が緩和されるか、むむむのむ。

 地球温暖化問題と同時に、都市の大気汚染も併行して取り組んでいかないと、都市には住めなくなってしまうと冗談抜きに危惧してしまう。


写真がアップできないので、Facebookで見てください。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=824116807611601&set=a.100902149933074.1928.100000398695802&type=1&theater

 

 

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2014年

11月

22日

アベコメミクス、活動費に大打撃

2014年11月22日

 10月26日に日本を出て、べトナムのハノイ、フエ、ホイアン、バンメトート、ホーチミンと寝台バスで南下し、カンボジアのプノンペンに陸路で入り、タイのバンコクまで再び陸路で入り、先日のブログで書いた通り、コロンボ経由でパキスタンのカラチに空路で到着。そして翌日イスラマバードに飛び、今は友人宅に荷をおろしてほっとしている。

 とはいえ、心からほっとできないでいる。理由は円の両替レートの暴落である。私はもうだいぶ前から、日本で円をドルに換えることはせずに、東南アジアもパキスタンでも円を直接現地の通貨に両替していた。私が使う微々たるお金なんて何の影響もしないとはわかってはいても、わざわざドル市場に加担したくないと思う気持もあったからだし、円が高かったので、どこに行っても両替に関しては悪い思いはしなかった。


 しかし、今回の東南アジアの旅では、毎日円の価値が下がっていき、両替して手元にもらえる現地のお金が少なくなり、金銭に関しては貧乏(心は豊かじゃ)なこちとらは、ひしひしと現地の物価が高く感じられ、打ちのめされながら旅をしていたのである。それでも旅をしている時はまだ非日常という気持があるので、少しは許せる部分があるのだが、これからルンブール谷で活動し生活するパキスタンでは意味合いが異なる。


 3日前、カラチのジナー空港で両替したときは1万円が8640ルピー(ふつう空港は街中の両替屋よりレートが少し低い)、翌日は8600を切り8500ルピー台になった。今日、イスラマバードの両替屋に電話でレートをきいたら、少し取り戻し8600きっちりだという。ちなみに去年の今頃パキスタンで両替したときは、いくらだったでしょう?1万円で1万700ルピーもらえたのです。1万円の両替で2100ルピーも差があるのです。

 

 今期最後と来期の活動のために、30万円ほどを両替しようと予定しているが、昨年だと30万円で321000ルピーだったのが、今年は258000ルピーにしかならない。なんとその差額は63000ルピーにもなる!これは私たちが教育促進として支援しているルンブール小学校の教員ヤシールへの月給の6ヶ月分以上になる額だ。

 レートが上がり下がりするのはある程度は致し方ない部分もあるが、こんなに急激にやられると、私たちの活動も萎んでしまいそうだ。元気がなくなる。


●集団的自衛権の閣議決定も撤回してほしい

 そうでなくとも、カラーシャ谷があるカイバルパシュトゥンクワ州の治安はまったく良くなっていない。今年2月にはタリバンから「カラーシャを攻撃する。彼らは酒を作ってムスリムに悪影響を及ぼしているから」という声明文の入ったビデオがどこかのテレビ局に送られて大騒ぎになった。幸いその後何も起こっていないが、外国人ツーリストは護衛のポリス付きでしか谷に入れない状態でめったに来ない。以前のような活気はない。


 私は旅行者でなく住民ということで、タリバンがアフガニスタンから山越えしてくる可能性が低い冬の間だけ、どうにかこうにかルンブールの自分の家(世界に自分の家はここしかない)に住んでいるが、これでアベコベ首相が集団的自衛権を行使することになって、自衛隊が米軍にくっついて世界のどこでも行くようになったりでもしたら、さらに海外に住む日本人に対するセキュリティは厳しくなると思う。

 

 パキスタンでは政府以外の国民はほとんど米国が嫌いだ。アフガニスタンから国境を越えて、無人機爆撃して一般国民がたくさん犠牲になっていることもその理由だし、だいたい、911テロの後にアフガニスタンに空爆した後から、どんどん治安が悪くなり、今も良くならない。住みにくいパキスタンにしたのは米国だと言う。


 そう思われている米国と過度にくっついて、わざわざ戦争をしに行って何の意味があるのだ?治安が不安定な場所に住んでる日本人のことも考えてもらいたい。もし日本が米軍と一緒に戦争するようになれば、確実に日本人がテロに会ったり、拉致されたりするリスクは高まる。「日本国民を守るため」とおっしゃるなら、即、集団的自衛権の閣議決定を撤回してほしい。米軍を守る前に日本人を守ってほしい。



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2014年

11月

20日

パキスタンに着いたけど、何故かカラチに

2014 年11月20日 


 昨日パキスタンに着きました。でも今回はカラチにです。どうしてこうなったかというと、長くなるけど割愛する方が面倒なのでだらだらと書きます。


 いつものようにバンコクに着いたらすぐに、イスラマバード行きの航空券を探したのですが、タイ航空だと片道13500バーツ(48000円ぐらい)もする上に、到着時刻が夜の10時半ときた。となるとイミグレーションを通って預けた荷物を取って、両替して空港を出る時は夜中の12時になるだろう。治安が悪いパキスタンで女一人でタクシーに乗るのは、いくら心臓が強い私でも躊躇してしまう。レディオ・キャブというハイヤーは割合信用できるが、これは事前に予約しておかねばならない。いつも私がお世話になるファジアに頼めばよいのだが、ファジアは現在、下の息子ヤワルの留学にドイツまでくっついていってしまって留守なのだ。


 もし無事にタクシーに乗ってファジアが留守の家に夜中に着いても、誰が門を開けてくれるのか。前にそんなに遅くない時間に着いた時ちょうど停電していて、門の呼び出しベルが鳴らなくて、門を叩いたりいろいろやったがだめで、結局隣りの使用人の人が隣りの家の、こちらの使用人の部屋に近いところから呼んでようやく開けてもらったことがあるので、真夜中にそんな状況になりたくない。


 こんなことを、私が渋い顔して頭の中で考えていたら、旅行代理店のシーク教徒のお兄さんが、「じゃあ、カラチに行くっていうのはどう?空港税やら含めて7900バーツ(28000円)だよ」というので、「カラチからイスラマバード行きの国内航空券を付けるといくら?」ときいたら、「それが、国内線だと8000バーツ(28400円)するんだよ」というのだ。「えー!それじゃあ、カラチまでの航空券より高いじゃん。カラチの空港で買えばもっと安いはず」と部屋に戻ってネットで調べてみると、パキスタン航空は11000いくらルピー(12730円以上)、シャヒーン航空は8800ぐらい(10200円)、エアブルー航空も8000いくらルピーとわかった。そしてみんな夕方発のイスラマバード行きのフライトがある。直接タイ航空でイスラマバードに行くのと、値段的にはたいして差はないが、これら3つのうち一つで行けば、夜とはいえ9時前に空港に着くからぎりぎりセーフというところだから、よっしゃ、今回はカラチ経由で行ってみようと決めた。


 もちろんバンコクからカラチまで直行するわけではない。スリランカ航空だからコロンボでいったん降りて乗り継ぐことになる。だからバンコク発7時20分と早い出発となる。ということは4時のエアポートバスに乗らないといけない。ということは3時すぎには起きなきゃいかんということだ。今回父が使っていたシンプルな目覚まし時計を置いてきたので、パキスタンで使っているガラ系携帯電話を引っぱりだしてセットするが、ずーと使ってなかったので、ほんとうに鳴ってくれるのか今一信用できず、一日前から早起きの練習をしたりした。


 当日は緊張していて、目覚ましの前に起きたが、目覚ましも鳴ってくれ、宿のモーニングコールもわざわざ4階まで来て戸を叩いて起こしに来てくれた。(どこかの宿では頼んだのに忘れられてしまったことがある。)

 スリランカ航空の機体はなかなか乗り心地がよく、それぞれの席の前に、映画、音楽など自分で選んで観れるスクリーン端末もついている。パキスタン航空よりずっといいのは間違いない。


 わりあい快適に機上を過ごして、カラチには予定より少し早く午後4時前に到着。これだったら今日中にイスラマバードに着けるかもと内心喜んだのだが、残念!8800ルピーとインターネットに載せていたシャヒーン航空のイスラマバードまでの値段は倍の16000ルピーに値上がりしていたのだ。(突然倍に値上げってあり得ますか?)前に航空機事故を起こしているからあまり乗りたくないエアーブルーに行くと、航空券は8100ルピーでほっとしたが、「今日はない」というのです。「ないって満席ってこと?」ときくと、「今日はフライトがありません」だと。ではなんでインターネットに毎日って載せるのだ!と怒ったってどうしようもない。明日の航空券を買って、今日はカラチに泊まることにする。


 タクシー案内のところに行って、どこかエコノミーの宿を知ってるかときくと、「知ってる、知ってる。グルシャンなんとかかんとか」と兄さんたちが言う。値段をきくと、「4000ルピー(4640円)」という。「そんな高くなくて、2000ルピーぐらいのはない?私は以前カラチでエアコン付きで500ルピーの宿に泊まったことがあるよ」と大昔の話をすると、兄さんたちはケラケラ笑って、「500ルピーだなんて、どういう話をしとるんよ。4000ルピーのゲストハウスしかないよ。あなたからするとたいした額ではないでしょ」こんにゃろーと思ったが、もう明日の航空券を買った後なんで、泊まるしかない。


 おんぼろタクシーに乗って空港を出ると、街は土埃が舞っているのか灰色に覆われている。べトナムもカンボジアもタイもどこもかしこも空気が悪い。大気汚染が地球上に広がっているようだ。


 着いたゲストハウスはほんとうに宿ビジネスのこと知ってるの?これで4000ルピーもよくぼったくるね、と言いたいような、普通のがらんとした部屋。でも、マネージャーとオーナーの会話がパシュトゥー語だったのをずばやくキャッチして、「あなたたちパシュトー人なの?」とこちらもブロークンパシュトゥー語を話して、少し打ち解けてから、「あなた、ゲストの部屋には飲み水を置いとかないとゲストハウスと言えないよ」とか、「トイレが水だらけだよ。どうやって座るの?掃除した後はちゃんと拭かなきゃ」とか、「タオルと石けんがありませんよ」と、いちいち指図しているが、マッチャーというマネージャーは嫌な顔はしないで、はいはいと言うことをきいている。(当たり前のことだけど。)


 近くのバザールに探検に行くと行ったら、マッチャーも付いてきて、この辺りは古くからある界隈で、近くに海軍と陸軍の住宅もあり、テロが起こったことはないと説明してくれた。テロがないのはいいけど、うーむ、魅力ないなあ、この辺り。


 あーあ、ルンブール谷までの道は遠いなあ。

 

PS:日本を出た頃から、このJimdoの無料ホームページの操作が変わり、写真のアップもできなくなりなりました。(写真アップロードをクリックしても、何の反応もない)誰か教えてください。




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2014年

11月

13日

バンメトート

ベトナム の 中部高原最大の街。コーヒーの産地として近年急速に発展してきた。元来、エデ族の居住地だったが、べトナム戦争以来、ベト族が移住してきた。今もエデ族などの少数民族が4割。べトナム戦争中はアメリカとサイゴン政府軍の戦略拠点だった。

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