キラン図書室で「サダ子の祈り」を

朗読してきかせるヤシール
朗読してきかせるヤシール
2010年10月20日  イスラマバードのフォジアが活動するNGO"Funkor Art Center"のホームページ/PeaceThrough Booksに、ルンブールのキラン図書室に関してのニュースが掲載されたので、お知らせします。  私たちのキラン図書室は7月から9月まで、子供たちが家族と共に夏の畑地の家に移住していたり、作物の収穫時期なので畑で手伝ったり(遊んだり)するために、図書室の集まりが悪いということで一時閉館していましたが、収穫作業が一段落した10月はじめから再開しました。その初日の模様です。  この日、子供各自が好きな本を読書した後に、ヤシールが「Sadako's Prayer(サダ子の祈り)」読みきかせをしました。パキスタンの子供たちに平和の願いを込めて、広島市のNPO、ANT-Hiroshimaが支援して、イスラマバードの友人フォジアの絵と文で出版されたこの絵本を20冊プレゼントしてもらったので、ヤシールの読みきかせの後に子供たちに手渡しました。  写真は下のリンクをクリックしてください。 http://funkor4books.blogspot.com/2010/10/sadakos-prayer-in-rumbur-valley-chitral.html Photos courtesy Akiko Wada. On the occasion of International Teacher's Day, October 2010, Rumbur Development Welfare & Conservation Society organised book reading session in their Resource Center in the remote Kalash village Rumbur in Chitral. One volunteer of RDWCS read the Sadako's Prayer in Kalasha language while the other hel the book for children to look at the pictures. At the end of the session 25 books were distributed among children and 5 were kept for the library at the resource center.

ウジャマー・ジャパンからも緊急支援金が

20101020

 2005年のパキスタン北部大地震で被害を受けた子供たちへの奨学金支援や、異文化を積極的に学ぶスタディ・ツアーを中心に活動しているNGO「ウジャマー・ジャパン」からも、緊急支援金集めに多大な協力をいただいております。

 

 このNGOを率いる写真家の船尾修さんは、毎年パキスタン北部にいらしているだけでなく、昨年の9月にはバラングル村にも来られたので、現状を大変よく理解されていらっしゃいます。私のブログでの緊急支援の呼びかけに、すぐに応じて動いていただいた船尾さんの、8月30日のブログを遅ればせながら転載させてもらいます。

 

パキスタン大洪水への緊急支援を!

2010.08.30 Monday

 今夏、パキスタンにて大洪水に遭遇し、軍用ヘリにて救出された件では、皆様をお騒がせいたしました。ことの顛末については、前々回のブログをご参照ください。

 さて、今日はまたそれに関連したことを書くことにします。というのは、パキスタンのヒンドークシュ山脈の山間の村に暮らす友人の「わだ晶子」さんから、緊急支援を乞うメールが入ってきたからです。

 詳しいことは、まず彼女の827日付のブログをお読みください。

 http://kalashapakistan.jimdo.com/2010/08/27/

 

 目的が別にあるにせよ日本から自衛隊がパキスタンへ派遣されたように、大洪水の被害状況は当初の予測をはるかに超えて大規模で、専門家の間では、スマトラ島沖地震による津波被害をはるかに超える地球規模の災害であることがわかってきました。

 

 災害から1カ月もたってようやく実態が分かるというのは、何事もスムーズに事が運ぶ日本に暮らしているとにわかに理解しがたいですが、それにはいくつか理由があります。

 

1)「テロ国家」というマイナス・イメージが強いため、諸外国の人の関心を引きにくい。

2)軍隊が強い力を持つ国であるため、完全な縦社会であり、権限が上層部に集中しすぎているため、彼らの命令なしでは迅速に物事を処理することができない。

3)都市と地方(農村)との経済的・政治的格差が大きく、外国からの支援などが地方の末端部に届きにくい。

4)道路・交通機関・通信などのインフラ整備が遅れているため、正確な情報が伝わりにくい。

 といったようなことから、こうした災害では政府の対応は後手後手に回る傾向があるのです。1ヶ月経って、ようやく全貌が見えてきたのは、こうした理由からです。

 

 わださんの暮らすカラーシャの谷は、自給自足に近い経済であることに加え、イスラム教徒ではない少数民族が多く暮らす場所であるため、外国や政府からの支援は常に最も最後に位置づけられることは想像に難くありません。現地に暮らすわださんの報告によれば、流出した土砂が谷の中央にある川を埋め尽くしつつあるということです。この谷は数年前まで電気が来ておりませんでしたが、わださんの運営するNGOが中心になって簡易水力発電所を設置し、それ以降ようやく電気が使える村になりました。

 

 しかし、その水力発電所が、土砂によって埋もれようとしています。その対策としては、上流部にこれ以上土砂が堆積しないように堤防を設置する必要があるということです。

 日本と違って、村人の暮らしを脅かす災害に対して、パキスタンという政府はあまりにも無関心で無力なのです。信じられないことかもしれませんが、これがこの国の事実なのです。(そのことは、実際僕が5年間、パキスタンという国で大地震の災害復興にかかわった経験から、自信を持って言えることなのです。悲しいことですが)

 

 そこで、僕が代表を務めるNGOウジャマー・ジャパンでは、今回、わだ晶子さんの緊急支援の呼び掛けに賛同し、微力ですが協力させていただくことになりました。つまり、ウジャマー・ジャパンも我々のネットワークで支援のための義捐金を集め、それをわだ晶子さんのNGOへ資金協力するものです。

 

 本来、ウジャマー・ジャパンは「直接支援」を活動の柱としてきました。それは、皆様からの支援をかぎりなく100パーセントに近い金額を現地へ投入したいという思いがあるからです。大手NGONPOなどでは、人件費や渡航費、活動費などの「経費」が、全体の予算に占める割合が高く、僕はそのような形での活動に違和感を覚えたのが、そもそもウジャマー・ジャパンを設立するきっかけだったからです。

 

 わだ晶子さんは20年来の友人であり、また昨年、僕は実際にこのカラーシャの村を訪ね、彼女の活動を目のあたりにしてきました。彼女もまた、同じような考えの持ち主であり、信頼もしていますから、今回の支援金は彼女が代表を務めるNGO「ルンブール福祉文化開発組合」に託すのがもっとも生きる道であると信じています。

 

 1000万人ともいわれる被災者全員に個人が何かをすることなど不可能ですが、まずは「縁」のあるところから、縁でつながっている人々が、なんらかのアクションを起こす、というところから、すべてが始まるような気がしています。

 是非とも、ご協力をお願いする次第です。

 

■支援の方法:NGOウジャマー・ジャパンが代行して支援金を集め、まとめてNGO「ルンブール福祉文化開発組合」へお渡しします。もちろん、直接ルンブール福祉文化開発組合へ送金してくださっても結構です。

 

郵便振替をご利用ください。

郵便振替

口座名:NGOウジャマー・ジャパン

口座番号:00100−1−446572

*必ず「パキスタン洪水支援」とお書き添え下さい。

■不明の点は、NGOウジャマー・ジャパン事務局までお問い合わせください。

 

事務局:宮崎妙子

162-0823東京都新宿区神楽坂河岸11

東京ボランティア・市民活動センター メールボックスNO.1

TEL:090-5518-4838

E-mailujamaa-japan@excite.co.jp

 

 

上越市でも募金を呼び掛けています 

上越市名立笹川さん
上越市名立笹川さん

201010

 先週の木曜日(1014日)に帰国したのに、毎日忙しくて(1日だけはただの二日酔いで何もできなかった)、ブログ更新もしないまま1週間が過ぎてしまいました。申し分けありませんでした。

写真:新潟日報の記事

 帰国した日に、新潟県上越市の笹川さんから、新潟日報、9月25日付けの新聞のコピーが届いていました。内容は以下の通りです。新潟県近くのみなさま、ご協力よろしくお願います。( )内は私のコメントです。

 パキスタン洪水被災民族「カラーシャ」

募金で危機救いたい

上越市名立笹川さん「義援金奥地へ届かず」

 7月下旬(から8月上旬にかけて)パキスタン北西部を襲った大雨(および鉄砲水)で被害を受けた少数民族「カラーシャ」を支援しようと、上越市名立区の理容師、笹川慶さん(34)が募金を呼び掛けている。「衣装も魅力的で、多神教(的な)の宗教観も日本に近い。その民族(の村)が危機的な状況にある」と訴えている。

 

 カラーシャはアフガニスタン国境近くの山間部に住む3500人ほどの少数民族。イスラム教徒の多いパキスタンで独自の信仰を貫いて文化を形成している。

 笹川さんは見聞を広めようと、27歳の時に勤めていた都内の理容店を辞め、海外の安宿を泊まり歩くバックパッカーに。2003年にカラーシャの集落(谷)の一つ、ルンブールを訪れた際、「みんなで子どもの面倒を見るなど、昔の日本とよく似ている」と親近感を覚えた。現地でNGO「ルンブール福祉文化開発組合」を運営するわだ晶子さんと知り合い、それ以来毎年現地を訪れ、カラーシャとの交流を重ねてきた。

 

 笹川さんや同NGOによると、ルンブールでは洪水(鉄砲水)で田畑に大きな被害がでて、ほとんどの橋が流された。今後の被害を防ぐためにも、堤防を造るなどの応急処置を施す必要があるが、義援金や物資が届くのは都市部が中心。奥地に済み、独自の文化を守る彼らの元まで十分に回ってこないという。同国ではテロも頻発しているが、笹川さんは今回の募金を機に「自然とともに平和に暮らす人たちもいるということを知ってほしい」と話している。

 

募金口座は「ルンブール福祉文化開発組合新潟支局」

口座番号は上越信用金庫名立支店(普)0087806

お問い合わせは笹川さん。025-537-2444

ICLCセミナーで、鉄砲水の報告をします。

201010

 ルンブールのキラン図書室の活動を支援してもらっているICLC(国際識字文化センター)の、秋の講演会が今週土曜日の午後に開かれます。第一部は、「児童文学は日本と中国の戦争をどう表現したか?」という興味深いテーマで、中国の児童文学研究者の季穎(きえい)氏が 講演されます。第二部では季穎氏、絵本作家の津田櫓冬氏、そして児童文学作家の田島伸二氏の3人を中心にパネル討議が行われます。

 

 その後に30分ぐらい、私がちょうど14日に帰国するので、「キラン図書室の活動の様子」と「この夏襲った鉄砲水の被害と復旧」のDVDを上映しながら、近況の報告を行うことになりました。

  場所は新宿ですので、お近くの方、ついでの方はぜひともご参加ください。詳細は以下のサイトでご覧ください。

http://iclc.at.webry.info/201009/article_2.html

 

ママッディンの坊やの手術 

手術を受けるママッディンの坊や
手術を受けるママッディンの坊や

201010

 姉弟の契りを結んだボンボッレット谷の家族で、三番目の弟シャー・マハマッド・ディン、私がこの家族と暮らしていた頃はまだ小学生だったのに、今や3人の坊やの父親になっている。

 

 今年5月、川に流されて亡くなった二番目の弟ブトーの娘のお葬式で滞在した際に、ママッディンの一番幼い生後10ヶ月の坊やが、生まれつき手足に障害があることがわかり、心を痛めていた。手の方は物をにぎることもできるのでそう問題ないが、足の方は両足の裏が内側に曲がっていて、歩く時期になっても歩けないだろうと思われる。

 

 ママッディンは坊やをチトラールの医者に診せたが、ペシャワールで手術を受けさせる以外直らない、その手術代は6万ルピーほどかかると言われたという。以前のようにブトーのゲストハウスがバッグパッカーで満員の時だったら、ブトーがどうにか賄えただろうけど、去年からカラーシャ谷は旅行者が行きたくても行けない状況なのだから、ブトーの商売も上ったりで、干上がっている。お金ができてからなどと言っていたら、坊やは大きくなってしまう。骨の柔らかい歩く前の時期が手術には適していると思うので、夏が過ぎた秋にぜひとも坊やをペシャワールに連れていかなければならない。

 

 そういう時に(お葬式の後に)、カラーシャ谷を訪れるのが3度目で、私のブログも詳しく見てくださっているバッグパッカーのNさんが、「どうぞ役立たせてください」と封筒を下さった。中を開けてびっくり。ちょっと分厚かったので、百ルピー札で500ルピーぐらいかと思ったら、なんと5千ルピー冊が6枚、3万ルピーも入っているではないか。それで、彼に坊やの手術のことを話したら、彼もブトーのゲストハウスに滞在したこともあるし、縁がないわけではないからと、快く手術代にまわすことを承諾してもらえた。

 

 ペシャワールの治安が良ければ私も坊やに同行しようと思っていたが、どうもペシャワールはここんとこ外国人には少しリスクがありそうだし、ブトーは何度もペシャワールに行っているし、親戚もいるんだから、彼らだけで大丈夫ということで、私の同行は止めた。

 

 それで9月末にブトーを呼んで、Nさんの支援金から2万ルピー、静江さんと私がそれぞれ5千ルピーをカンパして、手術代の半額になる3万ルピーを手渡した。(残り半分は自力で算段してもらう。)Nさんの残りの1万ルピーはルンブールの医療援助のためにとっておくことにした。

 

 106日、帰国の途でチトラールの町にいた時にママッディンが坊やと奥さんを連れて来ていた。医者に最終診断をしてもらい、ペシャワールの医者への紹介状を書いてもらったという。紹介してもらったペシャワールの外科医はチトラール出身なので、チトラール語で話せるので助かった。彼らは今日にもペシャワールに出るという。手術の成功を祈るばかりだ。坊やの人生はこれから長いんだから。

朗報その2/電気が戻った。 

明るくなった中学校の教室
明るくなった中学校の教室

2010年10月

 もしかして鉄砲水の被害にあって二度と動かないのではと心配していた発電所の発電機が、チトラールの技師によって修理されて、私が谷を出る1週間ぐらい前に発電所に戻ってきました。

 

 以前の状態どおりにはならないものの(発電機はすぐ熱くなるらしい)、やはり夜に電気が来ると助かります。発電所ができてから、ランプ用の灯油はもはや谷の店で売っておらず、電気がなかった間はみんな懐中電燈やろうそくで部屋の灯を取っていました。暗いだけでなく、乾電池は3個セットで60ルピー、一晩もたないろうそくは1本10ルピーもするので、電気代の数倍費用がかかっていました。電気が戻ってきて万々歳です。まあ、発電機がいつまで持ちこたえてくれるか、ドキドキしながらですが。

 

 電線が壊れて昼間でも暗かった小学校と中学校の教室に、7月、私たちの活動費で配電の修理と新しく電気を付けましたが、今回村を出る2日前に、ちゃんと付いているか見に行きました。教室が2つしかないカラーシャ小学校にはきちんと電気がついていましたが、3室ある中学校の1教室の電球は、泊まり込みの教師がちゃっかり自分たちの部屋に付け替えていました。もちろん文句を言って戻してもらいましたが、全く人を教育する身分のくせに、ほんと油断も隙もないもんです。

堤防建設の報告

地下を掘る作業中
地下を掘る作業中

201010月 

 9月にいただいた日本の友人たちからの緊急支援金によって造られている3カ所の堤防工事は、予定通りに進んでいます。 

 

 もちろん辺境の谷の状況の中での「予定通り」なので、日本の工事のペースとはまったく違うということを理解していただければと思います。ブルドーザーやクレーン車があるわけではないので、コンプレッサーのドリルで岩に穴を空けて、ダイナマイトや火薬を詰めて爆発させて岩をくだく作業だけは、チトラールの町から技術者を連れて来て、泊まりがけでやってもらいますが、他のすべての過程が地元の男たちの手作業になります。

 

 と言うと、そんな村人だけで堤防ができるのかと心配になるかもしれません。しかし、これまでにも私たちのNGOは工事責任者のサイフラー議長の下で、UNDP(国連開発計画)の援助で200m級の堤防建設や、2005年のあの難しかった水力発電所もきちんと造りましたので、安心して任せてもらえると思います。

 

 まず、バラングル村上流部の25mの堤防工事は9月20日から始まっています。コンプレッサーで岩を砕く作業を終え、今は地下1、5メートル掘り下げて、石とセメントによる基礎を造る作業中です。サンドリガ支谷から木を運び、セメントを流し込む型わくを作り、そこにセメントを流し、石を積み、セメントを流し、石を積むという作業です。    

  

鉄骨をはめ込む作業
鉄骨をはめ込む作業

 バラングル村下流部の15mの堤防工事は上流部より少し前から始まっています。こちらは8月に鉄砲水が来た際、その下にあった橋に流れてきた丸太や岩がせき止められて、一時土砂が上まで溜まり、そのために対岸の川底が他の場所よりも高くなったので、次回に鉄砲水が来たら、もろ大きい被害を受ける可能性が大なので、セメントと石だけでなく、鉄骨も入れて強度を高めるようにしました。鉄骨をはめ込む作業は私が谷を出る前に終了しました。

 

水力発電所の水路の取り込み口の堤防は9月末に始められ、バラングル村上流部のものと同じく石とセメントの堤防で、長さは20mです。堤防工事は寒くなるとセメントが固まらなくなるので、3カ所とも11月半ばまでには造り上げなければならないのが、一つ課題です。私が日本にいる間は、サイフラー議長が折々に電話で工事の報告をしてくれる予定ですので、またブログで報告します。

 

朗報ーその1

 サイフラー議長が、CIADP(Chitral Integrated Area Development Program / ノルウェー政府支援の組織) に申請していた、バラングル村の中間部4カ所の堤防と、橋の上流部の堤防、合計の長さ180mの堤防建設工事が認可されました。(注)残念ながら、この工事は実現しませんでした。)多分来年の春になると思いますが、これでバラングル村を守る堤防が村沿いに出来ることになり一安心です。私たちの緊急支援での堤防が完成したら、これらの堤防建設工事に取りかかることになるでしょう。

 

  残るは発電所への堤防とその向かい側の川岸の堤防です。これについては、日本に帰国後に考えることにします。

 

村を出る前に

クルミ落としの達人、ムシャンカーン
クルミ落としの達人、ムシャンカーン

201010

 九州の親元の事情に合わせて、ここのところ異常性を増してきた、チトラール警察の外国人に対しての独り相撲的保安活動(これについては後日お知らせできればと思います。)も鼻についてきたこともあり、今年も冬のチョウモスの祭りに参加しないまま、106日の朝、一時帰国の途につくために村を出ました。 

 

 ルンブールのわが場所に戻ってくるのは、早くても来年の春になるだろうから、「AKIKOの家」を去るに当たって、やることが山ほどありました。

 

クルミの収穫

 まず、9月の後半に収穫した3本分のクルミを屋根上やベランダに広げて乾燥させる作業。9月のくせに残暑どころか一度雨が降ると室温が15度ぐらいになり、なかなかスカッと乾いてくれず、けっこうちまちま手間がかかりました。私が世話しているクルミ3本のうち2本は、(名義はカラーシャの人になっているが)日本のお友達2人が所有しています。

 

 カラーシャの谷ではクルミの木の所有者と、土地の所有者が別々ということが多い。その昔、外のイスラム教徒がカラーシャからただでもらったものや、帽子や1ルピー札と交換した小さな木がどんどん大きくなっています。今や畑を部分的に覆い尽くしてしまい、畑の主は枝を切りたくても木の所有者ではないので切り落とせません。畑の所有者にしてみれば迷惑以外に何物でもないけれど、2万ルピー前後に高騰したクルミ代を払って買い取る以外どうすることもできない。呪いをかけて朽ち果てさせたいと思っている畑の所有者は多いはずです。

 

 そこで、そういったイスラム教徒所有のクルミの木を買い取る活動も始めました。畑に影響を与えている枝は切り落とし、毎年収穫した実の売却金を活動費に運用しています。今年はクルミ落としの達人を雇ったので、昨年よりも収穫高が多く、2本合わせて5,220ルピーになりました。他の友人からもクルミ1本を買うお金を預かっていますが、近年クルミの木、実共々価値が上がってきていて、所有者はなかなか手放さないので、売り手がみつからないでいます。

 

 もっと手こずる作業が、AKIKOの家の活動費、クラフトの売上げと支出、2階の増築費の経費、キラン図書室や美穂子寄付金の支出、立替え分など諸々の計算。これをパソコンのエクセルでやれば速いのだが、鉄砲水以来電気がなくパソコンが使えないので、小さな計算器でやるしかない。この計算器がわたしゃ苦手で、やる度に違った数字が出るんで、しまいに手で計算するが、これも数字が違ったりして、もう頭から湯気が出る状態になります。(それで9月24日はわざわざプリンターを持ってパソコン作業をしにチトラールに行ったのだ。その後9月末に発電機の修理ができて、夜間は電気がつくようになった。)

 

 そういう状況の中、仕込んでおいた乾燥アンズと乾燥桑の焼酎の素が、蒸留しなくちゃならない時期になり、「他にやることがいっぱいあるのに、こんなことをしてていいのか」と自分に問いながらも、放ったらかして捨てるのは絶対口惜しいので、焼酎1.5リットル抽出するのに半日もかかって、全部で8リットルほど作りました。これで来年は焼酎には困らないはず。うっしっし。

 

 今日、107日、私にしてはめずらしく一発で飛行機が来て、すんなりイスラマバードに到着。今はフォジアの家の客室で、インターネットでiTunesのラジオからジャズを流しながら、このブログをやってます。(だからリラックスして、ついはめがはずれている。)明日はきっちり姿勢を正して、緊急支援の堤防建設についてお知らせします。

 

頭痛の種が次から次へ

土砂で地面を流されて宙ぶらりんになった家畜小屋 。中ほどの短い堤防が2年前造られたもの。小さくても功績は大きかった。
土砂で地面を流されて宙ぶらりんになった家畜小屋 。中ほどの短い堤防が2年前造られたもの。小さくても功績は大きかった。

2010年9月

 9月初めに日本の有志の方々からの緊急支援金90万強ルピーが届き、さっそくバラングル村の上部と下部の堤防工事が始まりました。といっても、作物の収穫で一年で最も忙しい9月なので、今のところ手が空いている男性が数人ずつ作業しているだけですが、来週から作業人の数は増え、10月はフル回転になる見込みです。

 日本大使館の草の根援助の申請を泣く泣く断念したので、この支援金は大変にありがたく価値あるものとなりました。しかしながら、今回の支援金だけでは、バラングル村の堤防と発電所の堤防を建設するには、どう頭をひねってもカバーできないこともわかりました。

 

 浦島花子の私の物価の基準は、だいたい10年前、20年前のものにセットされていて、わざわざ思考回路をリニューアルしないと今日の物価に追従できなくなっている。それゆえ、堤防工事がそんなに費用がかかるものと思っていませんでした。聞けば、2年前に地方政府の援助で造られた、長さ33mの村の上流部の堤防の予算はなんと100万ルピー。(実際の費用は80万ルピーで、差額の20万ルピーは政府の役人に中間マージンで搾取された。)この2年間の物価上昇はうなぎ上り以上ということを考慮すると、今回の支援金では長さ33mの堤防を1カ所造るのがやっとということになります。

 

 それを村人たちを説得し、なるべく人件費を抑えて、上流部に長さ25m、高さ4mの堤防を40万ルピーで、下流部に長さ15m、高さ4mの堤防を15万ルピーで、発電所水路の取水口への堤防を30万ルピーで造り、5万をその他の経費に使うことになりました。残っている村の真ん中の堤防は、チトラール地方の地域援助のために発足した外国資本のNGOに、サイフラーさんが申請することになりました。

 

 後は10月に帰国してから、画像上映会などを開き、幅広い方面の方々にお願いして、来年春に補充するしかないでしょう。今後ともご意見、アドバイス、よいお知恵などどうぞよろしくお願いします。

 

 発電機も土砂の犠牲に

 当初、「鉄砲水の土砂は発電所の目の前まで迫ったが、発電所は無事」ということで、発電機やタービンはセーフと思っていましたが、土砂に流された水路を村人たちが新たに造り直して、いざ発電機を廻してみると、外から見た目にはわからなかったが、発電機もタービンの溝から土砂が入って被っていたらしく、しばらく作動はしていたものの、完全に壊れてしまいました。チトラールから技師を呼んで見てもらったら、コンピューター制御の性能の良い発電機だっただけに、元通りに直すのは無理ということです。もし直ったとしても、電圧も弱く、長く持つ保障はないというのです。

 

 苦労して立ち上げた「発電プロジェクト」で、「日本政府の援助で造ったルンブールの発電所の電気は、この一帯で一番安定していて良いものだ」とほめられると、造った甲斐があったと秘かに喜び、誇りでもありました。それが5年でだめになろうとは夢にも思いわなかったので、すっかり気落ちしてしまいました。

 

 この壊れた発電機は、チトラールの技師に直せるだけ直してもらって、弱い電気でがまんするしか、今のところ道はないでしょう。もちろん、一番願うのは元と同じ発電機を設置することですが、その費用は発電機だけで50万ルピーなので、設置、運搬、技師の費用など入れると60万ルピーになるだろう(私の計算で)。堤防建設の不足分の費用を集めるだけでも重いものを感じているのに、その上発電機のことまでも面倒みきれないのが事実ですが、うう、何か煮え切らないものを感じます。

 

日本からの緊急支援金が到着

201099 

 8月28日の緊急支援を呼びかけるブログを見て、すぐさま静江さん、いさこさんをはじめとした日本の友人たちが動いてくれたおかげで、静江さんが成田からイスラマバードに発つ9月3日までの5~6日の間に、37名もの方々からの支援金、819,000円と1,800ドルが集まりました。成田空港でドルに換金したその支援金を持って、静江さんが9月5日、チトラールの町に到着しました。

 

 到着の知らせを受けて、NGOの現地責任者であるサイフラーさんと共に私も次の日にチトラールへ向かいました。静江さんと合流して、私たちのNGOの口座があるカイバル銀行に行き、ドルをルピーに換金して、そのまま口座に入金しました。これで37名の方々からの支援金は無事に現地に届いたことになります。支援金を下さった方、協力して下さった方、ほんとうにほんとうにありがとうございました。現地の人々を代表して心から厚く感謝いたします。

 

草の根援助のプロジェクトは断念

 同じ日、イスラマバードの日本大使館から草の根援助のプロジェクトの申請書と、それに付随する書類が届きました。このプロジェクトは規模が大きく、村と発電所だけでなく、他にも例えば橋の保護堤防とか複数の堤防工事を含めることになり、これが遂行できれば、ルンブールを流れる川の主な流域は不意の鉄砲水に対して「鬼に金棒」になるはずでした。

 

 しかしながら、種々の書類を準備するのに最低1ヶ月はかかり、さらに書類を提出してからの大使館での審査、日本の外務省での審査で2ヶ月から8ヶ月の時間が費やされるので(2004年の水力発電所プロジェクトの際には、全行程でおよそ一年間かかった)、もしも申請が受諾されても、工事を始めるのは来年になることがわかりました。

 

 それに、私事になりますが、家庭の事情で私は10月に一時帰国することになっています。その前に書類を提出したとしても、大使館や外務省の審査において質問に応対することができません。こういった状況を考え含めた結果、このプロジェクトの申請は断念することにしました。

 

緊急支援金で堤防建設

 来年の夏に再び今年のような鉄砲水が襲ったら、川底が上がっている現在の状態では、発電所もバラングル村の家々の大半が流される可能性が非常に強いので、堤防建設工事は水が少なくなる今年の秋、つまり今すぐに始めなければなりません。

 

 今回、日本からの緊急支援金がすみやかに届いたおかげで、さっそくセメント、砂利などの資材の準備を始めています。今後の工事過程の報告は追ってこのブログでもお知らせしていきます。

 

ルンブール文化福祉開発組合

代表・わだ晶子

  

8月6日の大鉄砲水ー緊急支援のお願い

 8月1日に足止めされていたギルギットから軍のレスキュー貨物機でイスラマバードに連れて来られて、ラワルピンディに3泊、イスラマバードに2泊しました。その5日間は空路でチトラールに戻るために、毎朝午前5時台に空港に行き、チェックインした挙句にフライトキャンセルでまた街に戻るという日が続きました。

 

  8月6日、イスラマバード空港ですでに雨だったので、どうせ飛ばないだろうと思いながらチェックイン。それが運良く1時間の遅れで飛行機は離陸。悪天気で空中でとんぼ返りして引き返す可能性があるのでハラハラの中、飛行機は雲の多い中を南西に向けてコハート、ペシャワールの上空とえらく遠回りしてチトラールに到着してくれた。この瞬間はほんとうに嬉しくて心から神に感謝しました。

 

 チトラール地方も各地で洪水、土砂崩れの被害が出ている中で、ルンブール谷は道路が一カ所崩れているだけで、ほとんど大丈夫という話だったので、ほっと安心。余裕の気持ちでこの日の午後遅くルンブールに向かいました。それがそれが!

流された村の入り口のジープ橋
流された村の入り口のジープ橋

 ちょうどボンボレット谷とルンブール谷の分かれ目である国境警備隊のチェックポストの手前に差し掛かった際に、轟音と共に、大量の丸太や生の木を巻き込んで荒れ狂いながら谷川を下ってくる鉄砲水と遭遇してしまったのです。我々は荷物もそのままに車を降りて、チェックポスト前に走りました。が、そこも安全ではなく、チェックポスト隣の発電所が目の前で流され、ボーダーポリスたちは身の回りの物を抱えて建物から飛び出してきます。ルンブールへ続く道路は土砂で覆われています。道路の真ん中では、パニクっているのか、冷静なのか、ムスリムの警備隊員が大声でアラーに向けてコーランを唱えています。

 

 こんな大規模な鉄砲水だったら、ルンブールでは大被害が出ているだろうし、人も大勢流されてるのではないかという心配と、道に唖然として突っ立っている我々も流されるかも知れないという恐怖で顔が引き攣ってきました。グリスタンは完全にパニックに陥って、「村にもどらなくちゃ」と泣いています。

 

 たまたま居合わせたボンボレットのカラーシャが、「ルンブールに行くのは無理だから、うちにおいで。うちには電話もあるから、ルンブールの状況をきいてみよう」と我々を車で連れていってくれましたが、状況確認するにも、ルンブールには電話線も携帯電話塔もない。ルンブールの警備隊の詰め所の無線も電気がなくて動かないので、確認のしようがありません。

 

 翌朝、再び昨夜のチェックポストまで送ってもらい、泥で浸かったルンブール谷への道路を靴を脱ぎ裸足になって大変な思いをしてどうにか戻りました。しかし、谷の大小の橋という橋はことごとく流され、バラングル村の入り口の頑丈な橋も流されてしまったので村には戻れず、この夜は下流のカラーシャの客室に泊めてもらいました。

 

 鉄砲水が襲った翌々日に川の勢いが少し治まり、バテット村の下流に角材一本の橋が架けられたので(その橋まで行くのに、ぬかるみと岩だらけの河原を横切るのがまた大変だった)、その橋を渡って山の中腹を大きく遠回りをしてようやくバラングル村にたどり着くことができました。

 

 8月6日には雨も降っておらず、まさかこんな前代未聞の大規模な鉄砲水が起こるとは誰も思っていませんでした。谷の主な5つの橋は全部流され、4カ所の発電所のうち小規模な2つは完全に流されるか、泥の下に沈み、私たちの発電所は寸前のところで泥に浸からずに済んだものの、発電用の水路はかなりのダメージを負いました。

 

 つい2ヶ月前に設置したばかりの泉から引いた飲料水のパイプも流され、粉引き小屋の水路もごっそり決壊してしまいました。川沿いの多くの畑が流されるか土砂を被ってしまい、収穫を前にした作物の収穫は望めなくなりました。こんな状況の中で、家屋がぎりぎりのところであまり流されず、そして何より人的被害がなかったのが幸いでした。

 その後の復旧は?

 8月6日の鉄砲水の後は、男たちが率先して臨時の橋を架けたり、水路の修復作業に赴き、なかなか頼もしいものを感じていましたが、8月12日に、前回とは別な支谷から鉄砲水が起きて、仮の橋がまた流されたり、修復中の水路が壊れたりしてからは、志気も失せたようで、みんなで一気にやってしまえばできそうな作業も中途半端で滞っています。

 

 バラングル村入口のジープ橋の修復は、チトラールの役人が来て「ルンブールでの作業を優先して、5、6日で元通りに造り直す」と広言したので、「そりゃ無理だろう」と思いながらも期待して、村人たちは橋に使う角材を寸法通りに切って準備しているのに、あれ以来音沙汰なしです。

 

 チトラールにも政府や軍の救援物資が届いているということですが、軍はたいした被害がないボンボレット谷や、ルンブール谷でも高い尾根にあるカラーシャグロム村に救援物資を支給したり、いつものことながら、必要としている人へ必要な物が届いてないようです。貴重な援助物資をこんな風に無駄にするなら、はじめから援助物資などない方がよっぽどいいと腹が立ちます。

 

バラングル村と発電所が消滅する?

 昨年のことだったか、村の人が「大きい鉄砲水が来れば、このバラングル村は流される恐れがある」と言ったことがありました。私は「そんなことがあるはずないでしょ」と笑って終わらせましたが、今回の鉄砲水の爪痕を見て、「確かにあり得る」と納得しました。村の一番上流にあった一軒の家は流され、そのそばを通っていた粉引き小屋の水路はすべてえぐり取られて、川の水の流れがぐっと村側に来てしまいました。その上に、鉄砲水が運んできた膨大な量の土砂や岩石で、川底は1~2mほど高くなっているので、村と水面の距離は極端に縮まっています。今の状態で今回のような鉄砲水が来れば、村は一環の終わりです。

 

 今考えられる村を守る方法は堤防しかありません。およそ200~300mの村の長さに沿って堤防を造れば村は守れるはずです。しかし堤防建設は水量が少なくなる秋に行わねばならないので、今から準備にかからねばなりません。

 

 同時に、2004年に日本政府の草の根援助で建てた水力発電所と水路に対しても、堤防が絶対に必要です。この発電所は川から比較的遠い場所にありましたが、今回の鉄砲水で発電所の周りの畑や草地はすべて土砂の下になっています。発電所は寸前のところで土砂からまぬがれましたが、前述した通り、川の流れが変わっているし、川底が上がっているので、普通の規模の鉄砲水でも発電所が流される可能性は非常に高いのです。水路の修復は男たちが力を合わせてどうにかできますが、発電所が土砂に浸かると、予算のおよそ8割を当てて注文した発電機やタービンなどの機械が壊れると、もう村人の手に負えません。この発電所を守るためにも堤防が必要です。また水路の取水口にも必要です。

 

 私はすぐに、8月13日に日本大使館に緊急援助の要請のファックスを送りました。大使館の初めの回答は、「援助は無理」だということだったが、後日、洪水の被害に関連した被災地に対しては、草の根援助でも優先的に支援していくことになったという知らせを受けたので、「バラングル村およびその周辺、そして発電所を守る堤防建設プロジェクト」を正式に申請することにしました。

 

 緊急支援金のお願い

 しかし、日本大使館の草の根援助プロジェクトが認可されるかはわからないし、認可されるまで時間もかかります。危険な箇所には応急処置をしておかないと、大きな被害になってしまいます。そこで、その作業のために私たちのNGOで海外の友人に声をかけて支援金を集めることにしました。経済状況が落ち込んでいる日本の中でのお願いは、大変心苦しくはありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

  

(注)私たちのNGOの口座(チトラールのカイバル銀行)への海外送金は、手数料が高いので中止にしました。ご協力してくださる場合は、申しわけありませんが、まずはメールでご連絡ください。 akkowa25@hotmail.com (わだ  )   

 

 

ギルギット・フンザへ調査旅行

7月29日

 私は23年前に半年間中国を旅行した後、クンジュラブ峠を越えてパキスタンに入り、パス、フンザ、ギルギットに数日間ずつ滞在して、その年の10月初めにシャンドゥール峠を越えてチトラール県のボンボレット谷にやって来た。

 
木から落ちたアンズを拾う子供たち。バラングル村で
木から落ちたアンズを拾う子供たち。バラングル村で

計画した理由

 フンザは標高2500m、標高2000mのルンブール谷より少し北に位置しているが、生活環境はカラーシャ谷と似ている。しかし実際は、教育熱心で互助精神が高いイスマイリ派の人々が多いこともあるだろう、フンザやギルギットの人々の方が数段進歩しているように思う。

 

 10年ほど前にフンザやギルギットで製造されるアンズ油のことを知った。アンズの種を絞って作られる油は、肌や髪に良いだけでなく、オリーブ油のように料理にも使えると聞き、すぐにルンブール谷の上流や支流にあるアンズのことを思った。村の中にあるアンズの木は村の大人子供、よその子供たちから狙われて、あっという間に実も種もなくなるが、人があまり行かない上流や支流にある木は、誰からも顧みられず、実がぼとぼと地面に落ちたまま腐っていく。

 

 そういう光景をみて私は「もったいない」と思うのだが、カラーシャたちはあまり気にならないようだ。一度カラーシャの誰かからこういう話をきいた。「なんとかという他所から来るムスリムのおじさんは、うちの支流の上まで歩き回って朽ち落ちたアンズの種を拾い集め、40キロ入る袋を数個いっぱいにして持って帰り、町で売るんだよ。」「じゃあ、あんたたちも種を集めて売ればいいじゃん。」と私が言うと、「そんな面倒なこと誰がする」と笑われたことがある。

 

 現在、けっこうな数のカラーシャの若者がカレッジ(11学年~14学年)に行くようになった。私の住む村バラングルだけでも、4、5人カレッジで勉強している。しかしカレッジを卒業しても彼らには仕事がない。町の役所の職はいかに卒業試験や就職試験の成績が良くても、コネと賄賂がなければもらえない。非ムスリムのカラーシャだったらなおさら困難だ。家に戻っても、カレッジ卒だと今さら山羊追いもできない。(すればいいのに。)結局、ボンボレットの若者みたいに、頼まれもしないのに外国人ツーリストの後をくっついてまわったり、ぶらぶら日々をもてあます格好になってしまう。

 

 こういった教育を受けた若者が、地場産業として「アンズ油製造」「ドライフルーツ」の商売を立ち上げれば、本人を含め数人の雇用になるし、無駄になっていたアンズの種や実も売り物となれば、村人のささやかかも知れないが現金収入源にもなると長い間思っていたわけだが、そのための下調べをようやく今年になって実行することができた。

 

 またフンザにはカラーシャ谷より多くの観光客が訪れるので、海外からのNGOの後押しでハンディクラフト開発も盛んだ。そのクラフトの市場調査も兼ねて、チトラールの町以外に外に出たことのないカラーシャ娘のグリスタンを連れてギルギット、フンザに出かけた。

 

 

ジープのパンクは当たり前。
ジープのパンクは当たり前。

実際の調査

 ●村を出る際に、カラーシャの衣装だと目立ち過ぎて人の視線で自分が疲れるので、シャワールカミーズに着替えて行こうとグリスタンに言った。「ここで着替えたら恥ずかしいから途中でやる」と言うので、今度はチトラールの町を出る時に着替えるように言ったが、またまた恥ずかしいと言って着替えず、彼女はカラーシャドレスのまま、マストゥージ行きのジープに乗った。

 

 すぐに私が言ったことが実体験として理解できたようで、途中で止まったチャイ屋で、彼女自ら「みんな私を見るから、シャワールカミーズに着替える」と言ってシャワールカミーズ姿になった。それで人の視線も減ったが、「シャワールカミーズは軽過ぎて、なんだか裸で歩いてるみたいでへんな感じ」と言う。確かに8mの布地と毛糸を10玉分ほども縫い付けた服に5メートルの帯、ビーズと貝でびっしりの頭飾り、幾重ものネックレスを身につけていた後だったら、パキスタン一般服はそう感じるだろう。

 

 荷台にセメントやパイプなどたくさんの荷物と髭面の男たちを乗せたジープは、ラジエターへの水の補給のために30分おきに止まり、挙げ句に暗くなりかけた頃にマストゥージを前にしてタイヤがパンク。スペヤーのタイヤもあるからすぐに交換できると思ってたが、スペヤータイヤ(中国製)を取り外すのにえらい時間がかかり、その間グリスタンは「こんなところで立ち往生して私たちはどうなるの」と心細い顔をしていた。でも実際は、ジープがないからか、埃だらけの道路を歩いている2、3組のこざっぱりした女性たちに出くわしたし、私はむしろジープがパンクしてワクワクしたほどだったが。(旅の臨場感が味わえて)

 

 マストゥージではじめはギルギット行きバス(NATCO)発車場の前の食堂に泊まらせられそうになったが、しまいにTourist Garden Guest Houseに案内してもらう。清潔で感じのよいゲストハウスだ。そこの主人と話しているうちに、主人がボンボレットの弟ブトーと仲の良い友達だということがわかり、びっくり。というのはほんとうはこの旅にブトーも同行するはずだったからだ。ブトーは着替えの入ったバッグを持って家を出て、チトラールで裁判の用事をすましてから出発の予定だったが、裁判の用事が翌々日もできてしまい行けなくなったのだ。

 

沢にはまったバス
沢にはまったバス

 ●宿代も安くしてもらい、翌朝6時前にバスに乗る。1時間も経たぬうちに沢の流れにバスが立ち往生してしまい、男性の乗客みんなで助け合って石を敷き、バスに付けたロープを引っ張って流れからバスを引き出すハプニングがあったりして、よけいに乗客たち(カラチから来た家族、シャンドゥール峠の向こうの村に帰る親子など)が仲良くなり、なかなかいい気分。シャンドゥール峠でトイレとチャイ休憩。曇り空で肌寒く、チャイ屋のかまどの火にあたりながら、グリスタンは塩茶を注文。峠から2時間ほどにある、湖とポプラで飾られたパンダー村は美しかった。自然が美しいだけでなく、道沿いにはゴミ一つ落ちてなくて清々しい。こういう村の人たちの生活は垣間見てみたいと思う。

 

 グピスの少し手前で小規模の土砂崩れがあって、我々乗客は降りてグピスのNATCO連絡所兼食堂兼宿屋まで20分ほど歩く。昼食を食べ終わった頃に我々のバスが到着。しかしこの先にさらにひどい土砂崩れがあってバスはここから先は行かないという。だからここの宿に泊まるよう運転手や助手から言われて、部屋を案内されるが、部屋も布団も汚いのなんのって!座ることすらしたくないような代物だ。

 

 シーツを代えてくれというと、隣の部屋で使っていた薄汚れたシーツと代えようとする。床を掃いてくれというと、ちょこちょこと真ん中を掃いて、箒をポイと部屋に置いたまま行ってしまう。あんまりだから、23年前に政府のレストハウスに泊まった覚えがあるんで、「私たちはレストハウスに行く」と言うと、「あそこは予約してないと泊まれないし、もういっぱいだ」など言って行かせてくれない。親切なのかおせっかいなのか微妙というところのバスの助手の姿が見えなくなったのを見計らって、「ちょっと散歩に」と外に出て、しばらく歩いていると、ちゃんとまともなゲストハウスがあるではないか。 

 

 そっちのゲストハウスに移り落ち着くが、グリスタンはここら辺の言葉はチトラールで使われているコワール(コー語)とほぼ同じなので、地元の人たちの会話が理解でき、昨夜「この部屋には女2人だけで泊まっているぞ」と我々のことを話しているのをきいて、何かされるのではないかとこわくてよく眠れなかったという。

 

 ●前日夕方から降り出した雨が夜にひどくなり、朝も止まないので、道路の修復は無理だろう。しかしグピスにじっとしているわけにもいかないし、乗り合いコーチが来たので乗り込む。1時間もしないうちにコーチは止まる。土砂崩れは1キロぐらいで、10分ほどの歩けば向こう側に着くと言うんで、荷物をコーチの助手に持ってもらって歩き出す。

 

岩と泥が混ざった土砂が道路にせり出した箇所を何カ所も登り降りする。2度ほど、すべりそうな石を避けて踏んだ地点がずるずろ底なし沼のようになっていて、ふくらはぎまでぬめり込み、身動きがつかなくなった。ちょっと大げさに「ヘールプ!」と手を振り叫んだら、荷物を持ってくれてた青年が荷物を置いて戻ってきて、手を引っ張ってくれて助かったが、ちとばかりこわい思いをしてしまった。体重も軽いグリスタンは問題なくぴょんぴょん土砂の山を越えていた。

 

 パキスタンで10分ということは30分ぐらいはかかるかなと思ったが、いやいや、30分しても「後少し」と言われ、結局、雨の中ずぶ濡れになりながら1時間半歩かされた。土砂崩れは全部で30カ所ほどあったと思う。我ながら人工股関節の身でよく頑張ったぞよ。

 

 昼すぎにギルギットに到着。マディナ・ホテルに宿をとる。ここの経営者ヤクッブさんも付設の旅行代理店のハビッブさんも以前にルンブールに来たことがあって、私のこともサイフラーさんのことも知っていて、グリスタンのことを「彼女はカラーシャのリーダーの娘だ」と他の人に紹介し、暖かく迎えてくれ、とても居心地がよろしい。しかしながらギルギットも雨で、傘を持たないグリスタンを外に連れ歩くこともできず、ホテルで情報ノートを見たり、ホテルの人たちと話をしたり。

 

 夕方サイフラー・ゲストハウスにお客を連れてやってくるギルギットのツアー会社のカリームさん、ジャンギールさんたちがやってきて夕食をごちそうしてくれる。妹さんの結婚式のために一時帰国しているカリームさんは普段はフランス人の奥さんとパリに住んでいる。

 

AKRSPギルギット総括マネージャー
AKRSPギルギット総括マネージャー

 ●翌日は金曜日の半ドンなので、早めに行動する。まず情報招集のためにAKRSPに行ってみる。アンズ油やドライフルーツ製造ビジネスをカラーシャ谷で立ち上げるために現場をみたいと言うと、いきなりジェネラル・マネージャーのフンザイ氏に会わせてもらった。フンザイ氏は「それはいい企画だ。カラーシャのオイルとブランド名を付けて売り出せばよい」と上機嫌で製造元の一つを紹介してくれ、車も出してくれた。訪ねた先はゲストハウスの近くにある、アンズだけでなく、アーモンド、クルミ、シーバックソーンなど様々な油を製造販売する店だった。

 

 シーバックソーンはとげのある低木で、深く土をつかんで根を張るので、斜面や崖の土地の強化によいだけでなく、その葉は家畜の栄養源となり、実や種はガン予防の薬にもなるときいていたので、ルンブール谷にもぜひたくさん植えたいと、一時はチトラールのAKRSPに種を分けてもらおうと随分足を運んだものだが、結局手に入らなかったしろものだ。

 

 残念ながら店の責任者が出張で不在だったので、フンザに行って戻った時にまた寄らせてもらう約束をして宿にいったん戻る。戻る途中にグリスタンはウインドウに毛糸がたくさん並んだ店を見つけて興奮し、自分の帯用に水色系の毛糸を12巻購入する。督永さんが開いている母子センターに行きたかったが、宿に戻ったら昼過ぎていてあきらめる。

 

 午後はジャンギールさんの案内でバザールと川沿いを歩き、その後に彼の家を訪問。こじんまりとした家はきれいに掃除され、庭はクルミ、りんご、ぶどうなどの木が植えられ、庭の真ん中はトマトや菜っ葉の野菜畑で、家の脇は花がたくさん咲いていた。質素でこじんまりとした感じのよい家だ。ジャンギールの両親はシャンドゥール峠寄りのパンダー出身なので家族はコー語を話し、グリスタンは話が通じて楽しそう。手作りのパンとお茶をごちそうになって、ジャンギールのコンピューターで写真を見せてもらったりして寛いでいると、カリームの家に夕食を食べに来るよう言われる。

 

 カリームの家はジャンギールの隣にあった。カリームがパリで稼いでいるせいだろう、玄関先には4台のジープが止まり、家も随分大きくて部屋がたくさんある。ジャンギールの家もそうだったが、どの部屋にも絨毯が敷いてあり、壁際には細長い座布団がその上に敷いてあるので、日本の畳の部屋のように横になってリラックスできるのがよろしい。

 

 夕食のメインディッシュはフライドチキンとチキンカレー、そしてごはんとナンとサラダ。デザートはマンゴーとメロン。たっぷりとした体格のお母さんは、シャワールカミーズを着てさらに痩せて見えるグリスタンの隣に座って、さかんに「ベティ(娘よ)、ほらほらもっと食べなさい」と言って、グリスタンの皿をいっぱいにする。小食の彼女はなかなか匙が進まない様子だったが、私が脇で小声で「皿にある物をたくさん残すと失礼に当たるから、少し無理しても食べなきゃだめよ」と注意すると、普段だったら放りだすところをかなり頑張って食べていた。

 

精油機は大型で値段も高かった
精油機は大型で値段も高かった

 ●土曜日はフンザに移動。このコースは外国人ツーリストもたくさん通るところだから、私たちだけで乗り合いコーチで行けると言うのに、ジャンギールが「フンザに用事があるから」と言って(多分うそ)わざわざついてきてくれた。フンザ~ギルギット間は23年前は3時間ぐらいだと思っていたが今回は5時間もかかった。ジャンギールの知り合いが経営していて、ラカポシとディランの山が目の前に見える、World Roof Hotelにチェックイン。私が使う宿としてはランクが上の方で、洋式トイレ、テレビ、バルコニー、ホットシャワー(朝のみ)付きだ。(部屋代は友だち価格だろう、600ルピーだった。)

 

 ●日曜日はハンディクラフトの店を見て回る。全体的にショール類が多く、小物類は思ったよりは種類が少なかった。ほとんどが刺繍の物だ。参考に財布とメガネ入れを買う。値段はうちらのクラフトと同じくらいの値段で特別に安くはない。

 

 途中で数日前から来ている日本人の旅人レイラ、サイフラーさんのゲストハウスに今月はじめに泊まっていたタツキさんらと会い、店のことや食べ物情報などいろいろと教えてもらう。そのままレイラの宿のダイニングでおしゃべり。

 

 午後遅くカリームの弟エサンがオランダ人夫婦の客を連れてイスラマバードから到着。彼らが宿泊している高級ホテルのディナーに招待される。ディランの上に満月が煌々と輝く下、ホテルの屋外ベランダでエサンが雇った音楽隊の、ちょっとチトラールの音まわしに似たフンザの伝統音楽をききながら、カラーシャ谷にもある地酒のアンズ焼酎を飲みながら夕食をごちそうになり、踊り好きのみんなが踊るのを見ながら(グリスタンもレイラも私も1曲だけ踊った。もう1人のタツオさんは何度も踊っていた)夜が更けていった。なかなか贅沢な時間を体験できた。

 

 ●7月26日、月曜日。ギルギットのAKRSPで、フンザのアンズ油製造もギルギットで総括して行っているときいていたが、フンザにもAKRSPがあるというので一度訪ねてみようと、アリアバードまで行ってみるが、フンザのオフィスはモバイルになってなくなったとのこと(モバイルというのがどういう意味なのかよくわからないけど。)

 

 でも夫婦でプライベートで1ヶ月前に立ち上げたばかりのドライフルーツ製造元を聞き出し、そこを訪れる。彼らの「パラダイス・フルーツ」では10名ほどの男女(女性が多かった)が、収穫して持ち込まれたアンズを洗って種を出して、板の上に実を広げる作業をしていた。板は蚕棚のように何段にも重なっていたが、夫々の板に日が当たるように斜めに工夫されていた。そして屋根全体はビニールシートで、壁はビニール・ゴザで覆われていた。広げたアンズにサルファ剤の煙を当てると虫もこないし、色も良くなると教えてもらった。ここではアンズだけでなく、サクランボのドライ・フルーツも作っていた。油は冬に作るそうだ。

 

 アリアバードでは小さな油製造工場にも行ってみた。そこではアンズ油を絞っていたが、機械は思ったより大きく(100キロ以上ありそう)、値段も6万から8万ルピーということ。1キロの種からおよそ400mlの油が取れるそうだ。小さい道具だったら買って持っていくことも可能だが、とてもじゃないけど今回は無理。(値段的にも無理だけど)

 

 何より、まずアンズそのものについて考えなければならない。フンザで目にしたアンズの木はどの枝にも実がたわわに実り、ルンブール谷のものより3倍は収穫があるのではと思われた。アンズだけでなくリンゴにしてもそうだ。やはりまず実がよく生る木を植えることから始めなければ生らないのだろうか。それともここの水と土が果物の木にいいのだろうか。どっちにしても、ルンブールに戻って村の人たちとも相談した方がよさそうだ。

 

ドライフルーツ工場で作業をする女性たち
ドライフルーツ工場で作業をする女性たち
突然出来た湖の前で
突然出来た湖の前で

 ●翌朝、せっかくフンザまで来たからと、上流のカラコルム・ハイウェイが山崩れで湖になった場所に、カラーシャ谷に何度も来ているノリさんも誘ってジープをチャーターして行ってみることにする。目の前にあった山がどうやって崩れたのか想像を絶するが、実際に山はドロドロの巨大な土の怪物と化してしっかりと渓谷をせき止め、渓谷の底の川に氷河の水がどんどん貯まって、20近くの村を飲み込み、長さ30キロの湖を作ってしまった。湖水は泥が沈殿してエメラルドグリーンに輝き、後の雪山を背景に想像以上の美しさだった。

 

 しかし政府が地元の人に無料でサービスしている(外国人は500ルピー)湖を渡る舟を見ると、人工股関節の私はとてもじゃないけど3時間も湖上の人になる気はしない。逆にノリさんは「飛行機を止めて、この舟に乗って中国を通って帰国したいな」と言っていた。私たちはその日の夕方にギルギットに戻った。

 

 ●7月28日。残る仕事はギルギットのアンズ油製造販売の責任者に会うだけだ。前夜から雨が降り始めて上がる気配がないので、傘をさしてどこもかしこも雨でぐちゃぐちゃになった道を歩いて店へ。油製造の部屋も見せてもらったが、こちらの機械は見た目にアリアバードのものとそんなに変わらなかったのに、値段は15万ルピーと言われた。

 

 雨は降り続いていたが、マストゥージ行きのNATCOバスが通ったらしく、ジャンギールが切符を買ってきてくれた。これで翌日バスに乗れれば、翌々日にはチトラールに戻れる。こうなると早く戻りたい。グリスタンはもっと家が恋しくなっている。

 

 ●7月29日朝。チェックアウトして7時前にバス停に行く。荷物を積む段になって、NATCO事務所に「どこか近くで土砂崩れがあり通行不可能」との連絡が入り、切符を払い戻してもらって、また宿の前にいた部屋に戻ってくる。雨は止む気配どころか雨脚はひどくなり、いたるところで道路が決壊していると言う。電気もずーと止まっているので、テレビのニュースも見れない。

 

 ●7月30~31日。同じ宿にいて、1日過ぎたのか2日過ぎたのかわけわからぬ感じ。数冊あった日本の文庫本も読み尽くしてしまった。31日の昼すぎにようやく雨は上がったが、道路が開通するのはいつになるのかまだわからない。

 

何がセキュリティじゃ

2010年7月

 唯一の有給スタッフだったジャムシェールに止めてもらってから半月以上が経った。その間、民家に比べるとかなり大きい造りのAkikoの家の2階に私1人で寝泊まりしている。

 

 4月から6月まで村に滞在していたKさんには、カラーシャの婿になったにもかかわらず、チトラール警察やチトラール知事から何度も何度も呼び出されて、「外国人は狙われる。危ないから早く谷を去れ」としつこく勧告を受け、宿の部屋は危険だからとゲストハウスの家族と一緒の部屋に寝起きさせられていた。

 

 私が日本から戻った5月も、アユーン巡査長たちが2、3度やってきて、「あんたの安全のために、家の前の庭にテントを張って警官を常駐させる」というもんだから、「いやいやけっこう。自分の敷地に警官とはいえ知らない男性がいるというだけで落ち着かないから(気持ちが悪いと正直には言わなかった)。ジャムシェールが24時間いてくれるから全く問題ないです。彼の弟も図書室で寝てくれてるし」と柔らかく断った。(実際は、6月になってからはジャムシェールは昼間はほどんどおらず、夜10時すぎに2階のベランダのベッドに外から入って勝手に寝てるだけだったが。)

 

 しかし、2匹の犬が毒殺されたり、図書室の窓の金網が50センチほど切られていたりしたことで、何か不気味な感じがしないわけでもなかったんで、口では大丈夫と言いながらも、6月20日に2階の部屋に移った当初は、四方から見られているかも知れないと、電気はカーテンをきっちり閉めてからしか付けないなど用心していた。

 

 2階の窓にガラスを入れ、棚を作ったり、下から少しずつ荷物を移動させて、新しい部屋も住み易くなりつつある。治安も少し良くなった感じもするし、子犬がいることも少しは心強い感じがするし、2階に住むのにも慣れたのか、びくつくことがなくなった。非常に重い物を持つなどの力仕事以外は全部自分でこなしている。ジャムシェールがいる頃は彼に仕事を与えなければならないので、自分でやらずに取っておく。しかし彼に「これこれをやっておいてね」と言っても6月はほとんどやってくれてない。そうすると腹も立つ。しかし彼がいないと、おのずと自分でやるんで万事スムーズで精神的にもよろしい。

 

 つい先日、ジャムシェールがここで寝てないと聞いて、「村のすぐ上流にテントを張って住み込み始めたアユーンの警官を庭に泊まらせる」と上からの達しがあったらしい。警官への食事はジャマットが面倒みるというんで、庭だったらどうぞとベッドと布団を用意した。翌朝ベッドを見ると人が寝た形跡がない。訊くと、警官は1人で外で寝るのがこわいと言うことで来なかったという。一体何のために警官がいるのだ。外国人の安全を守るということで警察のチェックポストもでき、新しく警官も増やしたはずなのに全く役に立っていない。

 

 役に立つどころか警官は村人に損失を与える。乗り物のただ乗りは目をつぶるとして、民家でのただ食いだけでなく、下手すると、ワイン、焼酎などをせがまれる。ボンボレットに数日泊まってからサイフラー・ゲストハウスにやってきた日本人旅行者の話では、安全のため同行した年配の警官は知り合いが多くて、道ばたで会うほとんどすべての人と挨拶して立ち話をする、お茶を飲みたくなったら民家に立ち寄るので、予定の到着時刻より3時間も遅れた。こちらのゲストハウスに着くと、村の警官や知り合いが寄ってきて、旅行者は彼1人なのに警官や取り巻きたち7人分の食事をゲストハウスは差し出すはめになって申し訳なかったという。食事の後、警官たちは旅行者を差し置いて焼酎とハッシッシの宴会を開いていたという。

 

 こういうへっぴり腰で飲み喰いのことしか考えていない警官たちに安全を任せるのがまちがいで、ここでは自分の安全は自分で守るしかない。私の場合は神と子犬に委ねているが。

N婆さんの看護

 カラーシャでは息子が生まれると喜ばれる。娘が生まれても差別されるというわけではなく、娘でもけっこうかわいがられている。ただ息子は昔の日本のように家の跡取りで、親が年取ったら親の面倒を見てくれるからだ。ここでは子供がいないと老後が大変なのである。

 

 私が住む家のすぐ近くに老夫婦だけの世帯がある。最初の妻、N婆さんに子ができなかったので、老人は2人目の妻を娶ったが、やはり子宝に恵まれなかった。子供ができないまま3人とも歳をとってしまい、N婆さんはもうだいぶ前から目が悪くなり耳もあまり聞こえない。目は目やにでぐちゃぐちゃ、とてもいいお婆ちゃんだけど、一見ぎょっとする容貌だ。2番目の妻も耳が遠くて会話が困難である。爺さんも昨年大病をわずらい、数年間前から夏の畑がある家に移住することもできず、一年中昔ながらの窓のない造りの家にひっそりと暮らしている。

 

 カラーシャには女性の髪結い、沐浴は村から出て下流で行う掟があって、N婆さんの髪結いの時は片手に杖をつき、片手を2番目の妻の肩につかまってそろそろ這うようにして川辺まで行く。その姿があまりにも不憫なので、サイフラー議長は直接の親戚でもないけれど、前から「婆さんをチトラールの病院に連れていく」と言っていた。だが、N婆さんはジープに乗れないということで延び延びになっていた。

 

 先日、サイフラー議長がついにN婆さんをチトラールの病院に連れて行った。付き添いのためにグリスタンが同行した。「婆さんは白内障だから、その日のうちに手術して退院するよ」という話だったが、一行は2日経っても戻って来なかった。3日目、チトラールに出たついでに病院を訪ねると、サイフラー、グリスタン、爺さんの姪の夫、別の受診できた女性などがいた。N婆さんは眼科の手術台の上に横になっていて、私が「具合はどう?」ときいたら、何かちんぷんかんぷんの返事が戻ってきた。

 

 医者が来て説明するには、「彼女には3つの問題がある。1つ目の感染病は薬で治る。2つ目は涙腺のコントロールがきかなくなっている。これは今日これから手術して治す。3つ目の白内障は片目はもう治せなくなっているが、片目の方は10日後に施す。」ということで、片目でも見えるようになったら、本人にとっても家族にとっても万々歳だ。手術代、薬代でだいたい11000ルピーほどかかるという。

 

 サイフラー議長のゲストハウスは昨年以上に閑古鳥の状態だし、彼が借金して負担するにはあまりにも気の毒なので、その半分弱の5000ルピーを活動費から援助することにした。Akikoの家での活動は治安のこともあってクラフト活動以外は自重していて、活動費はあまり使っていない。役に立つことに早く使っていかないと、このところの急激な物価高でルピーの価値も下がる一方なのだ。

N婆さんに目薬をさすグリスタン
N婆さんに目薬をさすグリスタン

 翌日、一行はいったん病院から村に戻ってきた。普段から細身のグリスタンが一段と疲れた顔をしていたのできくと、「この3日間、病院ではちゃんと寝てないよ。特に夜は一睡もしてない。まず、チトラールに行くときに、婆ちゃん、生まれて初めて車に乗ったそうで、吐いちゃって。それで私の服もチャルダーもドロドロ。病院の水道でざっと洗ったけど、なんか臭ってるみたいでね。」

 

「ほいで、婆ちゃん、病院にいることが理解できなくて、なんやかんやわけのわからんことを言うのよ。夜もぐたぐた言うんで他の患者さんから文句言われるしね。トイレに連れて行くのも大変。だいたい病院のトイレ自体が入りたくないくらいものすごく汚いでしょ。ベッドに横にさせるときなんか、婆ちゃん、服の下にズボンを着けてないから、裾をきちんとしてやらないと中が見えてみっともないし。あれやこれやの世話で寝る暇がなかったよ。」

 

「最後の夜には、電気を消して、婆さんの服を脱がせて裸にして体を拭いてやり、チャルダーを被せ、他の患者たちに、電気をつけると眩しくて眠れないんで絶対に電気をつけるな、と厳しく言いつけて、私はトイレで婆さんの服をバケツに入れて洗剤と棒で洗って、硬く絞って扇風機の下で乾かした。私の服は父さんが泊まっている宿でまず服を洗って乾かし、それから沐浴して、肌着とズボンを洗った。もう大変どころの騒ぎじゃなかったよ。何度も半泣きしたよ。

 

 いやあ、1人娘のお嬢様育ちのグリスタンにしては驚くほどの献身ぶりだ。「よく看病してるね。この人はあんたの誰?」と周りの患者たちからきかれると、「私とは関係ないけど、看病する人がいないので、私が手伝ってる」とは言わずに、「私の婆ちゃんよ」と答えていたらしい。グリスタンの株が上がった出来事でした。

臨時ポリスになったスタッフ

2010年7月

 この冬、アメリカのアフガニスタン増派で、タリバンがいないはずのチトラール地域も治安が悪化するとふまえたパキスタン政府は、アメリカからの多額の軍事支援金で、1人もいなかったルンブール谷にも4人の警官が生まれた。

 

 私が帰国して留守の間に、ジャムシェールも2年間の臨時警官になっていた。月給は1万ルピー、半自給自足の基盤があるここでは高額だ。「Akikoの家」の基本給は3千ルピーだから、3倍以上だ。もっとも私がいる間は仕事に応じて1~2千ルピー私の方から上乗せして渡しているので、安月給といえども、まったく現金収入がない家が多い中ではそこそこ暮らしていけるはずだ。去年からは私の口ききで、モーリン女史のNGOからも月に2千ルピー(冬はなし)もらっていた。

 

 ジャムシェールが高給取りの警官になったので、「Akikoの家」の仕事は収入がない他の村人に受け継いでもらった方が公平だと思った。朝夕、キラン図書室の窓の開け閉め、建物の掃除、庭、畑の水入れ、午後は図書室で子供にウルドゥー語の本の読み聞かせをするというのが主な仕事だ。しかし実際に手が空いていて使いやすい男性がいないのだ。特にこの時期は、男は高地の山羊小屋に行ったり、夏の畑の家に移っていたりで、村の人口は減っているのでよけいに難しい。

 

 ジャムシェールは警官になったからといって、警察に出勤しなければならないわけでなく、谷に来る外国人ツーリストを把握して安全を守るのが仕事らしい。ツーリストが来たら、昼間はくっついて歩き、夜は宿の部屋の前で番をするだけだ。今年は去年に引き続いてツーリストが少ないのでほとんど仕事がない。

 

 ジャムシェールは私の専用護衛としてアユーン警察の巡査長から言いつけられ、「Akikoの家」の2階に寝ていた。こわがりのジャムシェールは弟のアリママットも図書室で寝かしていた。ベッド、寝袋、布団もこちらが供給するし、狭くて暑くてノミが多い自分たちの家で寝るよりはよっぽど快適だったはずだ。

 

 人が見つからないので、当座はそのままジャムシェールに「Akikoの家」の雑用をやってもらうしかないと様子をみていたが、図書室の3カ所の窓を開けると(3分もかからない)、いつの間にかいなくなる。それも日中ずっといなかったりする。問いただすと「巡査長が来たんで付き添っていた」とか何やら、警官の義務をほのめかす。「いなくなるんだったら、一言私に言ってからにしてよ。」と何度言っても、突然いなくなって、そのまま午後遅くまで姿を見せないという日が何日もあった。

 

 図書のリストアップやり直しのためにキラン図書室を閉めていたので、彼の仕事は少なくなったが、2階の新しい部屋に引っ越しするのに、荷物を運んだり、棚を作ったりする作業があるのに、いるのかいないのかわからない状態ではよけいにはかどらない。

 

 たまに一日中いるなと思ったら、「目が痛い。デキモノが痛い。頭が痛い」と元気がない。目の前で痛いと言われたら仕方がない、日本から持ってきた薬をあげないわけにはいかない。日本の痛み止めの錠剤は彼のために持ってきたようなもの。昼休みにランチを食べに家に戻っていいよと言うと、「家には食べるものがない。(あんたのとこで食べさせろ)」と卑しい口調で言う。高給取りにもなって、パンを焼く家族もいて、何をほざくんじゃと言いたい。

 

 こういう仕事ぶりだったくせに、6月28日の夜、サイフラーさんの家でよもやま話をしている時に、ジャムシェールがやってきて、あちら側に座って隣りの男たちに話をし始めていた。「たった3千ルピーで誰が働く。」と言っていたのが耳に入り、私と口論となり、結局いい機会だから止めてもらうことにした。

 

 空から降って(アメリカから飛んできて)湧いてきた月給1万ルピーにより、ボランティア・ベースの共同体活動で得る3千ルピー(プラス・アルファ)はばかばかしい金額に見えてしまったんだろう。後日、ジャマット・カーンがわざわざ私に「ジャムシェールをどうして止めさせたんだ。あんなに仕事をしてくれていたのに、あんたはバカか」みたいなことを言ってきた。カラーシャの標準からすれば、ジャムシェールは働いた方なんだろうなと、つくづく日本とカラーシャの常識のギャップを思わずにはいられない。    

 

ーさらに忙しー 

 といういきさつで、スタッフなしになってしまった翌朝からは5時前後に早起きして、私が建物の窓の開け閉め、庭の水まきに加えて、畑の作業もしている。犬のえさのこともあり、タシーリ(カラーシャ風パン)も焼いている。しかし案外思ったよりは大変ではなく、逆にジャムシェールが(彼に限らないとも思うが)のやり方が、例えば物の置き方とかが、いかに雑だったか、何も考えないでやっていたかがよくわかった。

 

 大変なのは、犬の世話だ。私にべったりになって、姿が見えないとすごい声で鳴きわめきうるさい。でもだんだん慣らして、今は昼間中外につなぎ、2回散歩をさせ、夜は2階のベランダに放して1匹でいてもそう鳴かなくなり、少し楽になった。

 

 もう一つ大変なのはアンズの収穫。一本になった私所有のアンズの木は通り道にあるので、まだ実が熟す前から、村の子供、大人、上流の生徒が通るたびに、枝に石を投げてアンズを落として拾い食べていく。あるいは木に登り、アンズを食べながらポッケットいっぱいにして逃げる。

 

 「こらあ。今年はチュチック(乾燥アンズ)を作るんだから、勝手に食べるな」と、2階の窓から怒鳴りつけるが、まったく馬の耳に念仏。同じ大人子供が1日に何回も平気な顔してやってきて、かっさらって行く。ビタミン補給になるから村人が食べてもいいと思う一方、叱られてもへのかっぱみたいな態度をされることに腹が立つのだ。

 

 去年は気が付いたら木からアンズがなくなっていて、一つも乾燥アンズができなかったが、今年はこまめに叱りつけ、一部に布を敷いて木から落ちたのを拾っているので、少しは乾燥アンズができそうだ。これで焼酎を作るんじゃ。

 

 ジャムシェールがいなくなって清々しているが、力仕事や留守番は必要だ。朝だけ2時間、毎日が無理なら隔日でもいい。キラン図書室の方はヤシールか他の読み書きができる人に頼めば良い。しかし、人選に関してその相談に行くにもこちらも忙しいし、頼りになる人も忙しくてつかまらない。

 

 サイフラーさんは複数の裁判のことでいないことが多いし、ヤシールは秋にフィンランドの映画祭に招かれ、そのビザのことでしょっちゅう電話しにチトラールに出かけている。クラフト隊のリーダーのグリスタンも共同体の女性代表的存在となり、昨日から村のお年寄りの付き添いでチトラールの病院に行っていて、クラフト製品ものろのろというところ。

 

 でもそういう中で新しくシュモン付きペンケースを開発した。サンプルで作った2つはパキスタン人女性がすぐに買ってくれた。シュモンを織ってもらっても製品を作っていかないとどうにもならないわけだから、今はアスマールの母さんにシュモン織りを休憩してもらって、ペンケース作りのトライアルをやってもらっている。

 

新製品、手織りの紐付きペンケース
新製品、手織りの紐付きペンケース

何と、ボンボレットからインターネットが

2010年6月24

 6月21日、今年度支援金をいただいた方へのお礼の手紙の郵送、Eメールのチェック、ブログ更新、その他の用事でチトラールの町に出た。しかしながらインターネット接続が何度試みてもつながらず、諦めるしかなかった。

 それで、3日後の今日、ボンボレット谷にやってきているのだ。ボンボレット谷ではこの冬に電話線が取り付けられて、ブルーン村のバーヤ(兄弟)の家、夏の畑の家、メザマース・バーヤの家など数カ所に電話が引かれていた。

 

 この冬、佐賀の実家にいた時、ヌールシャヒディンたちから電話がかかって驚いたものだが、インターネットがチトラールよりも働きが速いというから、昨年結婚したムサシの弟のラヒムディンに赤ん坊が生まれたお祝いも兼ねて、インターネット作業をしに来たのだ。

 

 夏の畑のバーヤの家は相変わらず散らかってハエも多いが、まさかインターネットができるようになるとは思いもしなかった。チトラールで21日に更新する予定だったブログは以下の通り。

 

6月20

 19日間もブログの更新をしないと書くことがいっぱいでまとめようがない。しかもこの3日前の雨で水力発電所の水路の取水口がひどく決壊して、村の男たちが修理をするが、数時間後にまた崩れるという繰り返しで、電気がなくてパソコン作業ができずにいた。チトラール行きが明日になったので、明るい昼間に充電で少しやってみたものの、充電率が49%になったのであわてて止める。というのは、チトラールでも停電という可能性もあるので、その場合のために充電を空にはできない。

 

 こういう事情で、今回のブログはやむなく、支援金をいただいた方へのお礼の手紙の文面(6月7日気付)の一部を使わせてもらうことにする。

 

Akikoの家」

 私の留守中も、キラン図書室とクラフト活動は続けられていて、というよりも学校が冬休みの2ヶ月間は、むしろ夏よりも、読書に学校のおさらいに図書室に来る子供が多くて、活発に活動していたもようでした。クラフトの方も、写真と一緒に説明して頼んでいった仕事を、技術面で安定した3人の女性がほぼノルマを果たしてくれていました。

 

 ここを出る昨年の秋に、わかりやすい出勤簿を作って、ある程度の読み書きができるグリスタンに記入するよう任せたものによって、賃金計算だけでなく、作業内容なども読み取ることができ、大変役に立ちました。こうやって少しずつ全行程の中で自分たちできる部分が広がっていき、いずれ全部を任せられるようになっていくことを現実的に期待させられました。そうなったら万々歳です。

 

 小中学生に激励賞を、そして電気も

 先日、進級試験で優秀な成績を修めた小・中学生に、奨励賞のノートを渡しに小・中学校に行きました。おととし、教室に電気がなかったので、学校のメンテナンス費用で電気を付けるよう、先生たちを説得して電気を引いてもらいましたが、小学校はその後に電線が焼けて電気が来てない。中学校は電球1個だけついていて、まだまだ暗い。いくら先生たちに言っても返事だけでやらないので、私たちの活動費から電気をつけることにしました。

 

治安は?

 現在、国境の向こうに隣接するアフガニスタンのヌーリスタン州ではタリバンとNATO軍の攻防戦が繰り広げられていて、ヌーリスタン人たちが国境を越えてパキスタン側にやってきています。彼らはタリバンから逃れる住民や兵士たちということで危険ではないのですが、すぐにチトラールの県知事/警察/兵隊によって、南のアフガン国境まで送り返されます。

 

 治安が昨年より不安定ということはまちがいなく、私も安全確保のために、2~3人の地元の警官(うちのスタッフもこのために臨時警官になった)にガードされて生活することを余儀なくされています。ちょっと嫌な感じですが、警官がいるとより安全なことは確かなので文句は言えません。早くアフガニスタン、パキスタン共々、平和になってほしいものです。

以上です。

 

その後の近況は、

1)キラン図書室は、日本から戻った週はお菓子のみやげ効果もあって1日で55人もの子供が来たりしたが、以前から抱えている「本をきちんと読めない低学年の子供がほとんどで、識字教育というよりも、なにやら幼稚園か児童館の様相めいている」問題は解決しないままだ。

 

 夏場はそうでなくとも大人も子供も山や畑の野外作業に忙しい時期で、家の手伝いもできないチビたちの子守りをする余裕は、忙しい私にはない。それでしばらく図書室は閉じることにした。

 

 その代わりに、前々から思っていた、図書室のウルドゥー語と英語の本のリストを英文アルファベットでパソコンに入力する作業を、チトラールのカレッジでコンピューター・サイエンスを学んでいるワリ・シャーにやってもらっている。電気も昼間は止められるし、私の古い日本語のパソコンでやってもらっているので、なかなか進まないが、キラン図書室の活動には1人でも多くの若者に関わってもらいたいので、気長にやっている。

 

2)小学校への電線の修理と、教室の壁にあった電球を中央に設置する作業は終了。今中学校の2つの教室に2個目の電球をつけるよう頼んでいる。

 

3)「AKIKOの家」2階の配電作業に4日かかって、しかも一つのスイッチをつけると、別の電球もついてしまう箇所もあるが、とにかく20日から私用の荷物と共に2階に移ることができた。新しい部屋は2つの窓からの見晴らしがよく、クルミの枝から枝を飛び回る鳥たちと同じ高さにいることが新鮮で気持ちがいい。

 

4)谷で開かれたCIADP(チトラール地域開発プログラム)の会合に呼ばれて、女性代表の声として、女性の沐浴と髪結い場の必要性を訴える。私が20年前に建てた沐浴場は古くなり、場所としても髪結いは禁じられているので、下流の日当りのよい場所に新しく建てるのが望ましい。

 

5)中国人の旅行者がクラフト(木のカラーシャ人形など)を買ってくれた。外国人旅行者が極端に少ない中で、アメリカ人と中国人旅行者が占める割合が多くなっている。といっても私が谷で会った中国人は今月5名だけだが。中国人が多くなってきているのは中国の成長ぶりを見れば理解できるが、アメリカ人が多いのはどうしてだろうか?

 

6)うちの犬たちが死んだという話があっという間にボンボレット谷にも伝わり、ムサシの母さんのつてでボンボレットの子犬がやってきた。とっても元気でやんちゃで、しばらくはこっちが振り回されそうだ。母犬が良く吠える番犬というので、早く大きくなって良い番犬になってくれ。

 

7)カラチのテレビ局「GEO」がカラーシャのドキュメンタリー番組を作っていて、インタビューを受ける。けっこうリラックスして正直な話ができた。図書室、クラフト活動なども丁寧に撮影していたが、へんな風に編集されないことを祈る。2ヶ月後にオンエアーだそうだ。

 

他にも毎日いろんなことが起きて話題には事欠かないが、今回はこれで。

 

 

突然やってきたたくさんの死

2010年6月1日  

  カラーシャではお年寄りが亡くなって向こうの世界に行くのは、人生を全うして旅立つお祝いだと考えられ、葬式は祭り以上のスケールで行われる。

 

  ただし、まだ人生の半分も行かない若い人が亡くなった場合は、無念と悲しみの方が大きく、参列者たちはとても祭りの気分にならないのがほんとうのところだ。

 



ラジナが... うちの村の女子高生で、昨年12月に時々このブログにも登場するムシバッタジーと婚約した娘が、ラワルピンディーの病院で亡くなった。彼女は小さい時にリウマチ熱をわずらったらしいが、的確な治療がなされなかったために、ここに来て心臓弁膜症を併発させてしまった。

 

 1月にムシバッタジーがラワルピンディーの軍病院に連れて行って診せたときは薬で治るということだったが、3月末に急に容態が悪くなり手術するしかないと言われた。4月はじめ、日本に戻っていたムシバッタジーが急遽ラワルピンディーに駆けつけて、イスラマバードのNHKで仕事をしていて、旅行会社も経営している、日本語が大変流暢なジャヴェッドさんらの助けを借りて、軍病院での手術の手配をしたにもかかわらず、彼女は手術前に思いもよらず亡くなってしまった。

 

 話が長くなるので割愛するが、昨年秋に私が村を出る少し前に挨拶に来てくれた彼女は、痛かった膝もその時は大丈夫だと言っていた。私がムシバッタジーのことをそっと耳打ちすると、ぱっと頬を染め恥じらった。花開く人生のスタート時点に立ったばかりの、希望をいっぱい胸にしていたあの娘がまさか逝ってしまうなんて信じられない気持ちで、日本にいた私は訃報をきいた。

 

ムク(左)とブン(右)
ムク(左)とブン(右)

ムクが...

 5月23日にバラングル村の我が家に着いたら、村の人や子供たちに混じって、2匹の飼犬のムクとブンのうちブンだけが出迎えにきた。ムクはどうしたんだろうと訊く前に、ジャムシェールが「ムクは2、3日前に死んだ」と言う。なんちゅうことだ。

 

 4年前に私がチトラールで拾ってきたスヌーピー模様の子犬のハナを飼い始めた時期に、やはり子犬だったムクとブンが、母犬についてサンドリガから村にやってきた。母犬は夜だけ子犬のもとに授乳しにくるが、昼間は放ったらかしで、お腹が空いてる子犬たちは人糞を食べたりして飢えをしのいでいた。

 

 ムクはひとなつっこくて毛むくじゃらで、私が初めて呼んだときもすぐにやってきてじゃれついてきた。一方ブンは臆病で成長も遅く見かけも今一、自分から行動できないブンはいつもムクの後にくっついていた。

 

 秋も深まって、だんだんと母さん犬も来なくなり、村の子供たちの容赦ないいじめに遭い、真冬の寒いときに川にも何度か捨てられたが、2匹はどうにか生き抜いていった。子供がいじめていると、私は子供たちを叱り2匹をかばったが、餌は決して与えなかった。餌をやると住み着いてしまい、ハナも含めて3匹になってしまう。しかも全部メスなのだ。子供を生んだら犬屋敷と化してしまう。自分が食べるのがぎりぎりの身としては餌代を算段する余裕はない。

 

 その冬、2匹に餌は与えなかったが、結局、いじめに遭わず、雪もしのげるということで、うちの軒下に2匹で丸まってよく寝ていた。ハナは家の中で飼われていたので、自ずと格付け一位、次がムク、最後がブンというランクが犬たちの中で決まっていて、じゃれあっていても必ず最後はブンが地面に押し付けられていた。

 

 2匹の救い主は静江さん。動物好きの彼女は時々2匹に餌をやり始めた。「餌をやると、静江さんが帰国した後も2匹はさらにどこにも行かなくなり、ここに住んでる私が困る」と止めたが、彼女はちょこちょこパンをちぎって与えたりしていた。

 

 翌年の春、私の股関節痛がひどくなり、治療のために一時帰国した。診察の結果、両足共に人工股関節置換の手術をすることになり、その年は日本に滞在。代わりに静江さんが2度も「Akikoの家」に来て活動してくれた。

 

 彼女の滞在中にハナがジステンパーにかかり、アユーンの動物病院にハナを連れていき、知り合いの家にハナも一緒に泊めてもらったりと、できる限りの力を尽くしてくれたが、静江さんが帰国してから死んでしまった。一緒に遊んでいたムクとブンは病気にかからずピンピンしていた。地元で生まれ、野性に近い状態で育った犬はたくましいものなのだ。

 

 途中経過は省略するが、2匹には静江さんが餌代を出すことになり、姉妹犬はうちの番犬となった。ハナがいなくなったので、頭角を表したムクが「ここは私のテリトリーじゃワン」と人や他の犬をよせつけない番犬になってくれた。しかし度が過ぎて、この冬には村人6、7人もの足を噛み付いたそうだ。ムクの死因はどうも誰かに毒を盛られたらしい。

 

 残ったブンは、私が戻ってからはずっと外の階段のそばにいてくれ(私の留守中は夜うろついていたらしいが)、通るたびにしっぽを振るし、上の水路を通る人には吠え、声もりりしくて頼もしく思える。格付けが最下位のブンが最後には残る。なんだか「醜いあひるの子」か「シンデレラ」のような展開だと感慨深く思った。



5歳の頃のシナ
5歳の頃のシナ

ブトーの末娘が...

 村に戻って6日目の夕方、悲報が舞い込んだ。ボンボレットの義兄弟であるブトーの末娘シナが川に落ちて亡くなったという。夏の家がある場所の途中にかかるテンポラリーの板の橋から落ちて、水に流されて死んだという。

 

 昔、ヌシャヒディンやブトーの家族と暮らしていた頃、私もよく通っていた橋だが、確かに危ない橋だ。毎年のように橋から落ちて子供が被害にあうので、ブルーン村の前に頑丈な橋ができたのに、そこだと少し遠回りになるからと板の橋を渡ることにしたらしい。

 

 9歳だったシナが赤ん坊の時、母親が手仕事をしているそばにごろりと寝かされておとなしくしていた。抱きぐせが激しいカラーシャの赤ん坊にはめずらしいおりこうさんの赤ん坊だった。成長するにつれ朗らかでひょんきんな少女になり、昨年夏に義兄弟の家族に会いに行った際に、ブトーの長女の写真を撮ったときに、すまし顔でポーズを取る長女の後に、おどけた表情をして頭を横に動かすシナが写っている。

 

 死というものから一番遠いところにいると思っていたあの元気のよかったシナの突然の死は、家族、親類、村人、谷の人すべてに大きな心の穴を開けてしまった。特に母親の痛手は半端ではない。シナはバシャリ(生理・出産中のこもり家)から畑仕事にいった母を追って行く途中にあの橋を渡ったのだ。「私のために愛しい娘は亡くなってしまった。私はどうしたらいい。どうしようもない。」とバシャリ家で泣くばかり。めったに会わない私でさえも大変なショックなのだから、母親の心の傷は計り知れなく深いものだと思う。



そしてブンが...

 シナの葬式で2泊してルンブールに戻ると、ブンが元気がない。前夜から餌を食べないという。餌のとうもろこしパンを小さくちぎってミルクに混ぜてやっても食べない。普段だったら大喜びで食べるとこなのに。夕食もやはり食べず、裏の庭で吐いていた。

 

 ブンは生理になっていて発情期が近づき、オス犬から守る必要もあるので数日前から夜は家の中に入れていたので、その夜も入れる。水で薄めたミルクをほんの少し飲み、後はずっとおとなしく犬専用の敷物の上にいた。

 

 私は徹夜続きの葬式で時間のサイクルがおかしくなり、この夜はパソコン作業をして気が付いたら明け方の4時になっていた。ブンが吐きたいかもしれないと思い、明るくなるのを待って、ブンを外に出してやった。水を飲み、足を冷やして戻ってきたブンはそのまま普段は入らない犬小屋に入り、横になった。(ムクが10日前に死んだ場所でもある。)

 

 前足の付け根あたりの動悸がどどんどどんと不整脈になり始め、昼すぎには胴全体が波打つようになり、午後2時にそれまでウーぐらいしか声を出さなかったブンはガアーとおののいて茶色の汁を2、3度吐き出して息絶えたのだ。朝に山羊、牛、ペット用の注射をジャムシェールにしてもらったが、効き目がなかった。

 

 それにしても、シナの葬式から帰ってきた翌日に、それまで元気でしっぽを振っていたブンが死んでしまうとはキツネにつままれたような気持ちだ。人や生き物はこんなに簡単に死んでしまうのか。

 

 死に方からすると、ブンも毒を盛られた可能性が強い。全くひどいことをする人間もいるものだ。「アキコをアタナシアスのように拉致するために、まず犬を殺したのかも」とぶっそうなことを言う村人もいて、なんだか嫌な感じだ。2階にポリスになったジャムシェールが寝てくれているので安心ではあるが。

 

 ということで、このところのたて続きの死に向き合い、少しぼーとすると涙が出てきたりする。しかしやることもたくさんあるので、落ち込む暇はないのです。 

 

 あまりにも長くなったので、キラン図書室のことや不在中のクラフト作業の報告は次回にまわします。

想定外ー陸路でチトラールへ

2010年5月22日

 今、22日日曜の朝、5時45分。どこにいるかというと、チトラールのマウンテン・イン。予定では昨日の朝、飛行機でチトラールの町に着いて、その日の夕方にはルンブール谷のバラングル村の我が家に、7ヶ月ぶりに戻っているはずだった。    

タクトバイ近くのバザールで
タクトバイ近くのバザールで

 昨日の朝は5時前に起きて、5時半に手配していた無線ハイヤーで空港へ。6時すぎにチェックインして、チトラール行きの飛行機に乗り、7時頃離陸した。機内で出されたコーラとケーキを食べ、視界下に見えるトルベラ・ダムを見ながら、隣に座ったカラチからの女性とけっこう楽しく話をしていると、何かアナウンスがあり、飛行機はゆっくりUターン。ラワリ峠の上に雲があってチトラール着陸は無理なので、イスラマバードに戻るというのだ。

 

 欠航はよくあることだが、欠航するんならせめてチェックインする前にしなさいよと言いたい。イスラマバード空港で降ろされ、さてどうしようか。選択は2つ、タクシーで30分かけてフォジアの家に戻るか、空港近くに住むパキスタン人の知り合いの方が「フライト欠航の場合はうちに来ればいいですよ。」と言ってくれたので、そこにお世話になるかだ。

 

 しかし、翌日の日曜日にはフライトがないことがわかり、そうなると最低2日間は世話になることになる。しかも2日後にまた欠航ということも考えられるし、といろいろ頭の中で考えていると、同じ便のチトラール人男性が「車で行こう」と持ちかけてきた。思いがけない第3の選択。

 

 彼はチトラールのFocusというNGOの方で、私のことを知っていた。もう1人の方も以前AKRSPの役職にいて、今はUS Aidでカシミールで仕事をしているという。日本大使が我々の発電プロジェクトの視察でルンブールに来られた際には同行したという。人の顔を覚えるのが苦手なんで(基本的に恥ずかしがり屋なんで、人の顔を凝視できない。もちろん、単に物覚えが悪いこともあるが)、「アキコ、私はあんたには何度も会ってるよ」と言われてバツが悪い思いをいつもするのだ。

 

 3年前に人工股関節置換の手術をしてからは、陸路を使うことは全くあきらめていたが、足も安定しているし、乗り合いのワゴンではないし、チトラールの有力者たちが一緒だから、問題はないだろう。気になることは、昨年ディールでタリバンが台頭してきて、軍との衝突が繰り広げられていたことだが、今は一応治まっている。ああだこうだ考える余地がなかったので、第3の選択をする。

 

 エアコン付きのいい車を雇ったので乗り心地は悪くない。仏教遺跡があるタクトバイの北、マラカンド峠の手前あたりから、道路に土嚢や石を積み上げた軍のチェックポイントを数多く見る。外国人顔の私だけでなく、運転手を含めた同乗の全員のIDカードの提示を求められたりするので、やはり少し緊張はする。そういったチェックもディールの手前からはなくなった。

 

 ディールで同乗の方がチトラールから呼んだFocusの車が来ていて、それに乗り換える。途中で、一行はラワリ・トンネルを通ろうとした(私は反対した)。このトンネルは貫通はしているが、まだ工事中なのだ。時間短縮ができるからと、つい先ほど、やはり飛行機が一緒だった地元出の国会議員がトンネルを通っていったばかりだった。入り口にはチトラール人でなく、パンジャブ人の兵士がいてコネがきかず、許可証がないからと断られてよかった。

 

 ラワリ峠は交通量は少なかったが、雪解けの上に車が走って固まった道路なので、その凹凸が半端でない。揺れが左右と垂直というものではなく、遠心分離機みたいに体がねじれるような揺れなのだ。おかげで車に乗ってるだけで、ずいぶん運動させてもらった気分になった。イスラマバード空港を午前8時半に出て、チトラールに午後7時半到着。11時間で来たのはこれまでの最短記録である。

 

盲学校での活動に同行

2010年5月21

 イスラマバードに着いて、あっという間に丸4日間が過ぎていった。着いた日の翌日はフォジアについて盲学校に行った。

目は見えないけれど、歌は大好き
目は見えないけれど、歌は大好き

ファジアは、盲目の子供たちが手で感じながら作りだしていく立体絵や点字の絵を作ることで、盲目の子供たちも創作の世界を知り、楽しむ機会を普通の子と同様に与えようとこの活動を始めた。

 

 当日は音楽のボランティアをしたいというご婦人が同行したので、音楽の授業を見学させてもらったが、声を出してリズムを取る子、恥ずかしがり屋の子、おしっこに行きたい子など、どこでも子供たちの教室はほほえましい。

 

 庭では、フォジアのリクエストにより、4人の女の子がスカーフに絵を描いていた。もちろんこの女の子たちも目が見えないか、強度の弱視である。7月に開かれるドイツでの展覧会にフォジアは招かれていて、その時に、ここ最近ヨーロッパで取りざたされている「イスラム女性のスカーフ問題」を、少女たちの絵によってアピールしようというものだ。

 

 庭には、フォジアの兄さんの支援金で作ったジャングルジムなどの遊び場があり、授業が終わると、子供たちは大はしゃぎで遊ぶ。とても目がみえないとは思えないくらいだ。

http://www.funkorchildart.com/AmaiPark.php

 

 昨日は、うちのキラン図書室用に本を買いに、National Book Foundation に行ってきた。そこで働くショーカットさんはICLC(国際識字文化センター)のイスラマバード支部の代表で、ラワルピンディーにあるアデイラ刑務所内のキラン・ライブラリー活動のリーダーの1人である。

 

 イスラマバードでは昼間は確かにぎんぎら日差しも強く暑いが、夕方に雨が降ったりして、ここのところは5月にない涼しさだとみんな言う。治安も街に出ていてそんなに悪いとは感じなかった。しかし、数日前にパキスタン政府により「Facebook」が閉じられ、昨日は何と「You Tube」が突然切られてしまった。神の使いムハンマド(モハメッド)の風刺漫画がYou Tobeで見れるようになっていたからだそうだ。そんなことでYou Tubeを止めてしまうパキスタン政府のバカさ加減には驚いてしまう。

 

  明日チトラールに飛ぶ予定だ。7ケ月ぶりのチトラール、そしてルンブール。チトラールで、村のみんなにおみやげ買って、自分の食料も買う。村のダットサンがチトラールに来ているといいけどな。村に着いたら、まず大掃除だろうな。2階の私用の部屋は昨年一応できたけど、雨漏りもあったそうだし、まず構造的なチェックをして移らねばならない。それに電気も引かねばならん。

 

 キラン図書室の本の目録を、ウルドゥー語音の英語アルファベットでパソコンに入力する作業もしたい(村の若者をパートで雇って)、クラフト作りはまず冬にやってもらったものを見てからですな。紙すきも昨年ほとんどできなかったから、今年はがんばるぞ。とやることが山とある。

 

 しかし、しばらくは村の人たちへの挨拶ですな。日本にいるときにはけっこう頻繁にカラーシャたちから電話がかかってきていたが、くわしい話はできないんで、積もった話がたくさんあるだろう。昨秋仕込んだワインはきっとすっぱくなってるだろうなあ。ジャムシェールが飲んでしまったのかもしれない。早く村に戻らねば。

 

 

   

べトナム航空、飛ばず

2010年5月17

 早朝5時に起きて、6時にタクシーでホテルを出て20分後に空港に着く。空港はあまり人が多くない。やはり成田やバンコクに比べるとまだまだ田舎なんだと納得しながら、べトナム航空のカウンターに行くと、人が少ないどころか誰もいない。

バンコクの空港には鮨カウンターもある。
バンコクの空港には鮨カウンターもある。

 出発時間の2時間半前だったので、「きっとチェックインは2時間前から始まるんだろう」と思い、文庫本を出して時間をつぶす。

 

 30分近く経ち、そろそろチェックインかなとカウンターの方を見るが、荷物を持った乗客も、カウンター内の航空会社の人もいない。それでようやく何かおかしいと気づき、案内の女性にきくと、「はい、あなたのフライトは夕方に変更されました」というではないか。「何ぃ!それは困る。わたしゃ、夕方にバンコクからイスラマバードの飛行機に乗らんといかんのです」と泣きついたら、「それではタイ航空に席があれば、そちらに乗ってもらうようやってみます」と言われる。

 

 それからまた待つこと1時間、1140分発のタイ航空の席をもらって、にっこり。バンコク~イスラマバードもタイ航空だから、バンコクの空港での 乗り継ぎもスムーズになるだろう。

 

 バンコク中心部はタクシン元首相支持者と政府軍の間の衝突で多くの死傷者を出し、荒れに荒れているが、空港内はそういう雰囲気はまったく感じられなくてほっとする。文庫本を読んだり、うとうとしたり、ティバッグのジャスミン茶(100バーツ→3ドル)を飲んだりして、待ち時間の6時間を過ごす。

 

 7時出発の飛行機に乗ると、席のまわりはジャージーの上下を着たタイの学生たち。スポーツの試合がパキスタンであるのだろうか。若い彼らは朗らかで、よく食べよく飲み(ワインも飲んどった)、彼らを見ていると、とてもバンコク市内の惨状を思い起こすことはできない。ま、今回の衝突に家族やらが関係なかったら、案外人ごとになるのかもしれない、昔、大学生や高校生が安保闘争やっていた頃、田舎町の高校生の私なんぞは全く別の世界にいたからね。

 

 というわけで、夜10時すぎに予定通りイスラマバードに到着。預けた荷物が最後の最後に出てきてタクシーに乗るのが遅くなった上に、フォジアの家に着いたら、あたりは停電で門のベルが作動せず、いくら門を叩いても、タクシーの運ちゃんに声を出してもらっても、家の中はうんともすんとも言わない。運ちゃんの携帯はカード切れで使えず困ってしまった。やがて隣の家の人が2階から声をかけてくれて、前と隣から、3重奏でフォジアの奉公人を呼んで、20分ほどし てやっとコックさんが起きてくれた。

 

 フォジアには前もってメールで知らせておいたのに、彼女曰く、「昼間は覚えていたけど、夜になってころっと忘れてい た」とな。とにかく家に入れてよかった。

やっぱりローカル市場

2010年5月16

 うちのホテルに日本人客が置いていったガイドブックやインターネットの情報があまりにも多すぎて、混乱しそうになっていたが、結局、ぶらぶら歩いて自分で発見したところが一番インパクトがある。

たくましき庶民+おばさんパワー
たくましき庶民+おばさんパワー

 その一番格は何といいっても日用品が並ぶローカルな市場だ。特に生鮮品が並ぶ市場はアジアならでの活気がある。しかも売り手も客も圧倒的に女性が多いので、とってもなじみやすい。いかつい体の髭面の男しかいないペシャワールのオールド・バザールとえらい違いだ。

 

 並んでいる肉や魚もきれいに処理されていて、意外にも集るハエが少ない。野菜はキャベツ、人参、もやし、玉ねぎ、芋類は当たり前だが、豊富な種類の香菜に混じってフキ、タケノコもある。白菜の漬物、揚げ豆腐、さつま揚げもおいしそうだ。花屋を飾るのは菊の花が多くて、「えっ、トロピカルなのに何で地味な菊が!」と驚いた。べトナムはタイよりも もっと日本に近い感じがする。

 

 そして市場の中の屋台の食堂は、感動的に安い。前日ホテルの近くで食べたバインセオ(べトナム風お好み焼き)は35000ドン(180円)だった が、市場の中では15000ドンと半分以下の値段、有名なフランスパンのサンドイッチは普通の通りでは12000ドン、市場では7000ドンだった。しかし午後4時にはもう市場は終わるので、三食を市場で取るわけにはいかない。ちなみに、観光客に有名なベンタイン市場の屋台はわざわざ安くはなかった。

 

メコン川ツアー

2010年5月14日

 メコン川を見るのに、メコンのほとりの町に1~2泊で行こうかと思っていたが、また荷造りをするのが面倒になって、日帰りツアーで行ってきた。

民謡を歌うみやげ屋のお姉さん
民謡を歌うみやげ屋のお姉さん

 日本語ガイドつきの日本人専用ツアーというのも勧められたが(値段が倍以上する)、昼食付きで9ドルという英語ガイドのツアーにした。中国、シンガポール、フィリピン、オーストラリア、カナダなど様々な国からの45人のツーリストの大ツアーだった。華奢で童顔のガイドの娘さんはイギリスなまりの英語を話し、隣に座った中国人男性は英語をまったく話せなかった。

 

 2時間弱でミトーの町に着いたが、町は新しいセメント造りの建物ばかりで、船着き場もぴかぴかつるつるの新しいビルで風情がない。実際に20人乗りの船に乗って、1キロぐらいの幅のメコン川を上ったり下ったりするのは、それなりにおもしろかった。しかし、出された昼食が普通の量の半分以下なのにはちょっとびっくり。足りなかったら、自分のポケットマネーで注文しろと見せられたメニューは普通の倍する値段で、周りの外国人は誰も注文していなかった。

 

 昼食の後、ココナッツ飴と蜂蜜を作っているところに連れていかれ、そこでみやげを買うことになっている。その後、4人乗りの小舟で15分ほど支流を下ることになっていたが、低いところに座れない私は、食堂のお兄さんのバイクに乗せてもらって、バスが待っているところまでみなさんより先回りすることになる。降ろされたところは、バイクより大きい車は通れない半ジャングル。

 

 さっきのおみやげ屋さんと同じように、テーブルと椅子があって、テーブルにはお茶セットが用意してある。まわりはココナッツやバナナなどの木々に囲まれて、風が木々の葉をなでて通る音がさわさわと聞こえる。私たちのバスがそこまで来ているはずだから、耳を住ませるとそんなに遠くないところに車の音がきこえる。

 

 木の間にかけたハンモックに寝転んでリラックスしている3人のおじさんたちに挨拶すると、あっちだと言うので、そっちに行くと、外に蜂箱が置いてある木造の家があって、中をのぞくとそこも床に男性が昼寝をしていた。その向こうの建物がトイレだったので、おじさんは私がトイレを探していると思ったのだろう。

 

 テーブルが置いてある脇には、蜂蜜や木彫りの土産物が置いてあって、女性が1人座って何か手作業をしていたが、私を見て、みやげを買えとも何も言わなかった。とにかく静かだった。吹いてくる風が心地よく、涼しかった。ホーチミン市の暑さが嘘のようだった。自然の中はこんなに気持ちのよいものかと感動した。1人で先回りしてよかったと思った。

 

 30分以上経っても、ツアーの連中は来ず、少し心配になった頃に、思ってもいなかった方向からがやがや連中がやってきた。そして、ガイド嬢の「べトナムのフルーツと、伝統音楽を楽しんでもらいましょう」の言葉に、パイナップル、ジャックフルーツ、ドラゴンフルーツなどの果物が出されて、それまでハンモックでぶらぶらしていたおじさんたちが楽器を手に、椅子に腰掛けた。土産屋のお姉さんが彼らの前に立って、独特な抑揚があるべトナムの民謡を歌ってくれた。最後の小さなハプニングで、とっても楽しいメコンツアーになった。

 

戦争証跡博物館

2010年5月11日

 昨夜は大汗かいて寝苦しい夜を過ごしたけど、エアコンは部屋を案内してくれた人が電源スイッチのことをはっきり説明しなかっただけで、ちゃんと動くことがわかりほっとしました。冷蔵庫も電気を入れたら、取りあえず臭いはわからなくなったし、バスタブもちゃんと栓があるので、やっぱりいい部屋だと再確認。

バラバラになった頭部付きの遺体を持つ米兵士/展示写真より
バラバラになった頭部付きの遺体を持つ米兵士/展示写真より

 今日はバイクタクシーに乗って、チョロン(中華街)の中国寺、中央郵便局、戦争証跡博物館などに行ってきた。

 

 戦争証跡博物館はべトナム戦争の歴史的真相、戦争犯罪とその後遺症の傷跡を証すための、数々の写真や武器が展示されている。友人が10年ほど前に行ったときは、枯れ葉剤の影響で奇形で生まれた赤児のホルマリン漬けになってたくさん並んでいたというが、今は、枯れ葉剤で奇形になった人たちの写真展示コーナーの足元に、上面が覆われている四角い透明の箱に2体ほどあるだけだ。床に座り込まないと見えなくなっているので、友人から話をきいてなければ、足の悪い私は見逃していただろう。

 

 別にホルマリン漬けの奇形児の展示を見たいというわけではないけど、「この手の展示はあまりにもショッキングだし、順調に経済成長しているべトナムの今の時期に、わざわざアメリカを刺激することはない」ということで、とり払われたのだろうかと、そういうことの方が気になってしまう。

 

 実際、博物館には外国人旅行者だけでなくべトナム人の若い人たちも来ていたが、彼らは明るくわいわい、まるで美術館に来ているような感じだった。若い世代にとってべトナム戦争はもうあさっての世界なのだろうか。

 

 アメリカが無理矢理に世界のあちこちで起こしている、殺戮と破壊しかない戦争について、最近まじめに考えるようになった私にとっては、この博物館の展示の写真はかなりのインパクトがあった。展示写真を見て、あのべトナム戦争の時、アメリカ人はべトナム人を人と思っていなかったのは確かだと思った。でなければあんなに惨い行為をできるはずがない。

 

 こういう惨い行為はすでに1945年に日本の広島と長崎に行っている。そして今、イラク、アフガニスタンに同じことをやっている。パキスタンもその延長で国境の村人は無人偵察機からミサイルを打たれて、タリバン掃討といいながら女子供も簡単に殺戮している。

 

 そういう思いで展示の写真を見ていると、「戦争というのは、こんなにも人間性を逸脱した悪魔のやることで、その後遺症は犠牲になった人々にとって、肉体的にも精神的にも深くて拭いきれないものである。それなのに、こういった醜い戦争をよその国に向けて今でも行う国に、どうしてまちがっていると言えないのだろうか?金や武力に対して、ただひれ伏さなければならないのだろうか、これは人間としておかしい行為ではないか」など、怒りと悲しさがこみ上げてきたのであった。

 

 

ホーチミン市におります

2010年5月11日

 ホーチミンに着きました。

 佐賀の図書館の本で、前もって調べていた、インターネットのLAN、ケーブルテレビ、冷蔵庫、お湯、バスタブ付きの、今泊まっている宿は、非常に清潔で、ぎりぎり私が払える15ドル。 

 部屋にチェックインして、「エアコンがどうも壊れているようだけど、代わりの扇風機がない。冷蔵庫はコードがはずされていたので開けるとすごい臭いがして使う気 になれない。テレビの画像があまり良くない。英語版のNHKワールドは入るが、BBCが見つからない。」など問題が発覚しました。

 

 でも一番肝心のLANが あるので、インターネットが部屋でできるのがいいです。東京でバタバタしていて、やり残しているパソコンでの作業や、連絡作業をこちらでやろうと思います。パキスタンに行ったら、もうできないもんね。

 

 しかし、35度の暑さで扇風機もないので、とにかく座っていても寝ていても。汗がじとじと拭いても吹いてでてきます。街はオートバイが濁流のように走っていて、道路を横断するのが大変。今日は戦争博物館、中央郵便局、ベンタイン市場などに行き、後はパソコン作業です。

 

下北沢「ぐ」でカラーシャの映像会

 連休明けの5月6日の夜は、下北沢のBEAT FACTORY「ぐ」のつぼみさんの計らいで、DVDの映像を見ながらの話をいたしました。

全員ではないけど
全員ではないけど

 下北沢駅西口から、南口の昔あった場所に昨年に戻った「ぐ」は、まちの茶の間として、本と雑貨の「ワン・ラブ」コーナーと、オリジナル服を縫製して販売する「Lily baby」のコーナーとスペースをシェアしながら新しい形でスタートしています。

http://www.gu-beat.net/

http://blogs.yahoo.co.jp/gu_beat

 

 場所が狭いということで、「ぐ」時代の友人を優先して声をかけたので、10人ほどのちょうどよい雰囲気の中で、映像を見てもらいながら、質問に答えながら進めていきました。

 

 「ぐ」の創立メンバーの1人、今は国分寺で古道具屋「ニコニコ堂」を経営し、執筆活動もしている長嶋康郎さんもわざわざ来てくれて嬉しかった。

http://mogue.jp/location/2516/

http://pikeman.blog5.fc2.com/blog-entry-776.html

http://navy.ap.teacup.com/niconico/

 

蕾ちゃんと集まってくれたみんなから活動支援金をカンパしていただきました。どうもありがとうございました。

宮沢賢治とベートーベンを聴こう

2010年4月24日

 高校時代の友人でピアニストの植田伸子ちゃん(昔から伸子ちゃんと呼んでいるので、こう呼ばないと、ピーンと来ない)と、元現代劇場所属で、今は福岡で語りや読み聞かせをされている花田玲子さんのコラボ、「宮沢賢治とベートーベンを聴こう」を福岡市まで見に行った。

 
月光を弾く伸子ちゃん
月光を弾く伸子ちゃん

 伸子ちゃんは国立音大を主席で卒業してから、毎年、東京と佐賀では必ず、他の都市でもリサイタルを開いているが、パキスタンで暮らすようになった私は、なかなか彼女の生演奏を聴く機会がない。仕方なく、伸子ちゃんのCDをカセットテープに録音したのを、バラングル村でクラフト作りをしながら聴くに甘んじている。今回ちょうど帰省中に、彼女の生の演奏が聴けるということで、喜んで出かけていった。

 

 舞台の上ではなく、弾き手がすぐそばで弾いているのを聴くのは、リサイタルとはまた違う良さがある。花田さんの宮沢賢治の語りは、今回は「雨ニモマケズ」で短いものだったが、その後の伸子ちゃんが弾く「月光」が自然でよく合っていた。

 

 演奏の後は「特攻隊と月光」で結ばれ、伸子ちゃんのファンでもある、桐生から駆けつけられた方々による、「おじいさんが孫に語る戦争の話ーユキは17歳特攻で死んだ」の手作りの紙芝居が披露された。

 

 ここのところイラクから、イラン、アフガニスタン、パキスタンと広がっていく戦争の脅威をひしひしと感じていて、平和を作っていく必要性を強く思っていたところだったので、たまたま平和運動を地道に続けていらっしゃる桐生の方々や、このピアノと語りを主催された福岡の方々とも平和への思いを共有できてとても嬉しかった。

 

共星の里ー黒川INN美術館での写真展

2010年4月20日

 4月18日の日曜日、船尾修氏の写真展「カミサマホトケサマ」を見に行った。

講堂だったレストランも楽しい空間
講堂だったレストランも楽しい空間

 登山家でもあるフォト・ジャーナリストの船尾さんは、世界でも有数の高い山々が存在するパキスタンには頻繁に来ておられる。バラングル村には昨年の9月にひょっこり顔を見せらて、20年ぶりに再会したばかりだ。

 

船尾さんは、2005年に起こったパキスタン北部大地震の際に現地に入って被害の実態を取材されただけでなく、援助が届かない被災者たちに支援する会も立ち上げ、今もその活動を続けておられ、写真家だけでなく、NPO活動、大学の講師、トレッキング・ガイドと精力的に活躍されている。

http://www.ujamaa-japan.org/

http://www.funaoosamu.com/

 

 写真展は福岡県朝倉市の共星の里ー黒川INN美術館という、山村の廃校になった小学校の後を利用した美術館で行われている。1日2~3便通っていたバスが3月に廃止されたばかりで、車がない私はどうやってアクセスするかが問題だったのだが、幸い、福岡市の友人たちが車で同行してくれるということになった。

 

 朝倉市の牧歌的な緑の田畑を通って、まずは朝市で新鮮な山菜や野菜の買物をした後、ナビに導かれて山あいに入って行く。曲がりくねった山道の道沿いには、青葉の竹林や小さな果樹園が牧歌的に広がり、まるで絵本のような景色だ。時々元気のよいホトトギスの声が響く。民家もなく、「ほんとうにこんなところにあるの」とみんなで首をかしげていると、黒川の村が現れた。

 

 黒川INN美術館は、元は小学校だったといっても、町の小学校とは違い、こじんまりしたほどよい規模の木造校舎のスペースで、教室はもちろん、玄関、廊下、階段にも作品が展示してあって、校舎全体が美術館になっている。

 

 1階の「世界子供美術館」は、芸術家たちが創作した作品を、入館した子供たちが手で触って感じたり、音を出したりしてもいいというのが新鮮だ。普通の美術館だったら、作品にロープが張られて、「立ち入り禁止/触るな」の立札があるところが、ここは子供たちに新しい発見を促し、創造の世界に導く思いやりと工夫が伺える。

 

 2階の3つの教室で船尾さんの「カミサマホトケサマ」の写真群が展示されていた。国東半島に残る日本の信仰のルーツを、東京から移住して暮らしながら撮影した写真の数々は、圧倒的な迫力がある。日本でもいまだに、カラーシャに似たような(ひょっとするともっと奇々怪々かもしれない)信仰の伝統文化が脈々と受け継がれているということに、驚いたと同時にほっとしたような気持ちにもなった。

 

 2階の奥の、舞台が残る講堂がレストランになっていた。ここでいただいた山菜和食ランチがこれまたおいしくて大満足。薪ストーブを囲んで、船尾さんや、この美術館のアート・ディレクター、柳和暢さんのお話をきくことができた。ライブ・ペインティングをされる柳さんは10年前まではアメリカに住んでおられて、お母様の介護がきっかけで福岡県に戻ってこられたそうだ。

 

 DVDで柳さんのパフォーマンスを見せてもらったが、大筆を持って即興で行うペインティングのスケールの大きさは度肝を抜いた。また、即興ペインティング、音楽、踊り、ファッションショーのコラボを、奥さんのプロデュースによって校庭で竹筒明かりの中で行われた祭りも、幻想的な素晴らしいもので、次回、機会があればぜひ目と感性の保養をさせてもらいたいと思った。

 

 この共星の里には、宿泊施設もあるそうです。1泊して、ゆっくり芸術品に触れ、あるいはのんびり山を散歩して過ごすのもいいかもしれない。海外、国内からのアーティストの方々が泊まりがけで作品を創るワークショップも折々に開かれるそうだ。

http://blog.goo.ne.jp/kyoseinosato/

 

アタナシアスさん解放

2010年4月20日 

 昨年9月8日ムンムレット谷でアフガン・タリバンに連れ去られて、アフガニスタンで拉致されていたギリシャ人のアタナシアスさんが7ヶ月ぶりに4月7日、解放された。

 

 この喜ばしい情報は、パキスタン・アフガニスタン関係の政治・治安関連のニュースをすばやく日本語に訳して発信するTrail Dogのウェブサイトをもっておられる丸山令子さんhttp://www.site-shara.net/traildog/index.html、Akikoの家(旧多目的ホール&作業室)での活動を手伝ってくれている静江さんから即日メールをもらっていたが、ブログでお知らせすることをすっかり忘れていた。

 

  アフガン・タリバンは当初、数億円の身代金とパキスタン側に捕まっているタリバン指導者4人の釈放を交換条件に出していたが、交渉がうまくいかず、最終的にはタリバン司令官1人だけの釈放で、アタナシアスさんは解放されたという。きっと裏で身代金が支払われているかと思うが、何にしても、アタナシアスさんが解放されただけでも、とびっきり良いニュースだと言ってよいだろう。アタナシアスさん、お疲れさまでした。

 

 これで、カラーシャ谷に外国人が、ほんの少しかもしれないが、行きやすくなったかも。

 

物価は高騰、治安は悪化。

2010年4月8日

 ご存知のように、私は1987年から多くの時間をパキスタンで暮らしている。当時アフガニスタンは、国王を追い出して共産政権を樹立した政府のサポートという口実で1979年に侵攻してきた旧ソ連軍と、ムジェヒディン(反政府ゲリラ)との戦闘がまだ終わっておらず、チトラールやペシャワールに限らず、パキスタン中にアフガン難民がいた。

親しくしているペシャワールの家族たち
親しくしているペシャワールの家族たち

 パキスタンの人たちは何かにつけ、例えば私がチトラールでマラリアにかかった時、「アフガン難民がマラリア蚊をつれてきたからだ」と医者は病気を難民のせいにしていたし、「町や都市の周りが急速に砂漠化したのは、アフガン難民が燃料として草木をどんどん刈ったためだ」など、いろいろ難民のことをぼやいたり文句を言っていた。

 

 そう言いながらも、まあ百年前までは今のような国境はなかったわけだし、北西辺境州の多くの住民とアフガン人の半数以上は同じ民族パシュトゥーン族だし、ということで わりあい寛容に受け入れていたように思える。アフガン難民が経営する店も多いし、りっぱな家に住んでいる難民もいた。私も難民の人たちとけっこう接してい た。

 

 1990 年半ばごろから旧ソ連軍撤退後に内戦状態になっていたアフガニスタンでは、アメリカやパキスタン、サウジアラビアからの密かな支持を得たタリバン(イスラ ム神学生)が台頭してきた。1970年代にはスカートをはいている女性がいたというアフガニスタンは昔の暗黒時代に戻らされ、女性は頭からすっぽりブルカ で覆って外出しなければならない。ヒールのついた靴で歩くと男を刺激するという理由で禁止。女性には教育は要らないと女子の学校も閉鎖された。

 

  この時期からパキスタンの都市や町にはやたら乞食が増えた。しかも女の乞食が。私もペシャワールのバスの中で、ブルカを被ったアフガンおばさんに財布をうまくスられた経験がある。

 

 アフガニスタンの内側ではタリバンによって秩序が保たれた部分もあるだろうが、アフガン国境から一番近い大都市ペシャワールが、 以前よりざわつき住みにくくなってきた感じを受けた。ペシャワールでお世話になるフィダさん家族も、「ペシャワールは問題だらけで、ストレスばっかり。自 分たちが商売の基点としているドバイに移住したい」とよくこばしていた。(今はドバイもバブルがはじけて大変になったが)

 

 それでも、私1人でおんぼろ乗り合いハイエースに乗って、ペシャワールには数ヶ月に一度の割で行っていた。フィダさん家族のところに泊めてもらうのが面倒なときは、中流の下ぐらいの宿に1人で泊まり、バザールをうろついて買物をするのに何ら問題はなかった。

 

  9、 11事件が起こり、アメリカがアフガニスタン空爆をし始め、自分たちが種をまいたはずのタリバンをやっつけたと同時に、莫大な金額のアフガン復興支援金が アフガニスタンに入った。そのほとんどの援助物資はパキスタンを通して運ばれるし、支援プロジェクトはパキスタンからチームを送ったりしていた。2005 年に完成させた我らが誇る水力発電プロジェクトの技術指導をしたチトラール人のアジスさんは、私たちのプロジェクトの後すぐにアフガニスタンでの水力発電 の仕事に携わっていて、ずっと家を留守にしていた。

 

  こういった援助金と、9、11の事件で西洋諸国に住みにくくなってUターンしてきたパキスタン人が土地を買ったり、家を建てたりするのと相乗して、パキスタン 国内は一部が妙な経済景気になり、おしゃれな店や輸入品を扱うスーパーが現れ出した。しかし急激な物価高騰になり、一般庶民の生活は苦しくなっていっ た。賄賂、汚職、泥棒、詐欺、悪いことをしなければ生き延びれないという悪循環に陥っていく。

 

  今や、アメリカ軍はアフガニスタンだけでなく、越境してパキスタンの村々にも、「テロリスト掃討」の口実でミサイル攻撃を行い、テロリストよりも女子供を含めたたくさんの一般庶民が誤爆で犠牲になっている。

 

 だいたい、「あの国に極悪人がいるから、殺しちまえ」とよその国にミサイルを撃つという行為自体が国際法を犯しているのではないかと、常識的に思うのだが、アメリカが大国だからって、こんなこと許されるだろうか。極悪人が気に入らないのなら、なぜ、北朝鮮 にミサイルを撃って、金正日をやっつけないのだ。ミャンマーの軍事政権を倒してくれないのだ。

 

 アメリカが行っていることは人道的に矛盾している。オバマ政権になったら良くなることを期待していたが、アフガニスタン増派で肩すかしにあった感じだ。ま、ブッシュ政権よりはずっと増しだいう希望はまだ持っているが。

 

  言いたいことは、私が20年以上パキスタンで暮らしていて、今が一番治安が悪いという事実だ。以前は自由にペシャワールやラホールに行っていたのが、今や リスクが多くて行く気がしない。(クラフトの材料やヘナを買いに行きたいのに)せっかく日本から「ルンブール谷を訪れたい」という方々がいらっしゃるのに、「おい で、おいで」と言えない歯がゆさがある。

 

  平和はすぐには来ないかもしれない、アフガンの内戦は続くだろう。しかし、そんなのアフガン国内の問題だから、内戦やらせたらいいだろう。そのうちに折り合い がつくはずだ。よその国が武力行使したり、武器援助をしてりして、周りの国を巻き込む戦争に拡大させるのはまちがいだ。

 

 武力とテロとの闘いなんて、環境と文化を破壊しながら永遠に続くばかりで、多くの人たちにとって何のメリットもない。限られたごくごく一部の、欲と権力に溺れた動物以下の者たちのために、 踊らされて牛耳られるのはもう嫌だ。もう止めよう。「おかしいぞ」と声を出そうよ。みんなも、日本政府も。

 

「マリーンズ ゴーホーム」と普天間問題

2010年4月8日

 3月のブログに掲載した、藤本幸久監督のドキュメンタリー映画「アメリカ/戦争をする国」の、根となる前作"Marines Go Home"のDVDを、自分のパソコンで観た。

 

 もう十数年前になるが、私が暮らすバラングル村に、生まれつきの障害が十代に成長してからひどくなり、だんだんと歩けなくなった10代の少年がいた。彼に何か治療がないものかと、当時イスラマバード在住で、病院でボランティアをされていた美穂さんに相談した。悲しいことにその障害の少年は風邪を引いたのがきっかけで亡くなってしまったが、このことがきっかけで、今でも美穂さんとは時々連絡を取っている。

 

 

 「アメリカ/戦争をする国」は、美穂さんが誘ってくれて東中野のボラボラ座に観に行ったわけだが、その時に彼女が、「パキスタンに持っていって向こうの人たちに見せてあげて」と、ボラボラ座で販売されていた "Marines Go Home"のDVDを購入して私に渡してくれたのだ。

 

 2008年に制作されたこの映画は、日本と韓国の3カ所にフォーカスされたドキュメンタリーだ。「自衛隊は憲法違反」の信念で立ち退きを拒否して、今も北海道の矢臼別自衛隊演習場のど真ん中に農業を営みながら暮らす川瀬さん。この演習場が日本一広いということもあって、沖縄の基地から米兵たちも演習をしにやってくる。

 

 韓国の米軍基地がある梅香里(メヒャンニ)では長年住民を苦しませていた爆撃演習場を、チョン・マンユさんをはじめとする住民たちが粘り強く裁判で闘い撤退させた。

 

 そして沖縄辺野古の、餌を求めてジュゴンもやって来るほどの美しい海をわざわざ埋め立てて、2キロにも及ぶ滑走路付きのアメリカ軍の基地を日本政府が造るのを反対するため全国から集まった「命を守る会」のメンバーたち。代表者だった金城さんは辺野古の海、そこに暮らす人々、生き物たちの命を守る運動に人生をかけてきたが、亡くなられてしまった。

 

 普天間基地移設問題がどういう方向に向かうのか、毎日ドキドキしながら、しかしどうせ政府はいい方向には解決できないだろうという諦めの気持ちも混ざってニュースを見ているが、こういったドキュメンター映画がもっと早い時期に多くの人に見てもらったらよかったとつくづく思う。もちろん今からでも遅くない。「長いものに卷かれない」人たちがいるということを実感し、私たちにも何ができるかを真剣に考えて、小さなことから行動していかねばならないと思う。

 

 「日本国家の安全を守るためにアメリカの軍備が必要だ」という考え自体がおかしい。北朝鮮の軍備費は13億ドル、韓国は150奥ドル、日本の自衛隊のそれは400億ドルという。どこが脅威というのだろうか。400億ドルもの装備をした自衛隊だけでは、13億ドルの軍備費をもつ北朝鮮からの攻撃を守れないので、わざわざ環境破壊までして米軍のために日本国民の税金で基地を造らねばならないという論理が納得しない。

海・水・生命-『大亀ガウディの海』

2010年4月2日

 ここのところ、語りの世界に縁がある。4月1日は、ICLC主催で行われた「海・水・生命」-語りとタブラによる『大亀ガウディの海』を楽しませてもらった。

 

 古典から童話まで、幅広いジャンルの語りをされている古屋和子さんですが、彼女の力強い語りと、11世紀から続くインドの伝統タブラ奏者の家系34代目の御曹司、アリフ・カーンさんとの迫力あるタブラの共演により、我々観客は次々とハプニングに遭遇するガウディと共に大海の世界に引き込まれていった。

黄金の舟ータゴールの夕べ

2010年3月28日

 宮沢賢治の語りを30年続けている林洋子さんが、タゴールの連作「渡り飛ぶ白鳥」、詩集「黄金の舟」の中から11篇を選び出し、森山繁さんのタブラと松浦孝成さんの笛の伴奏で、魂を込めて語った。その昔インドを旅したときに見た、インドならでの牧歌的な風景が、洋子さんの語りで甦ってきたようだった。

 

パキスタン・バザール

2010年3月27日

 上野公園の噴水前で開かれている「パキスタンバザール」に行ってきた。

シタールとタブラの演奏につい踊りだす観客
シタールとタブラの演奏につい踊りだす観客

 公園の入り口から噴水までの桜並木が続く両脇は、すごい花見の人たちですごい人手。桜も思ってたよりも咲いていてきれいだった。

 

 花見客が流れてきたこともあるだろうが、パキスタンバザールも人がたくさん集まっていて、ケバブ、カレー、ナン、ラッシーなどのパキスタン料理も売れていた。

 

  プログラムに、パキスタンの民族踊りということで、カラーシャの踊りも入っていた。これは明らかに、カラーシャではない人がカラーシャの民族衣装をへんてこに着て、へんてこにカラーシャの踊りを踊るのだろうと、重い気持ちでいたが、実際踊りが始まったら、カラーシャの踊りはなく、国立舞踊団の民族舞踊と、シタールとタブラの演奏だった。こういったちゃんとした音楽や踊りはパキスタンにいても、なかなか見る機会がないので、存分に楽しんだ。

 シタールとタブラ演奏のときは、音楽につられて、観客の方々がステージ前で踊り出し、子供たちも加わって、こういうことはパキスタンではよくあることだが、パキスタンを離れて5ヶ月経ってることもあり、パキスタンの雰囲気がものすごくなつかしく感じられた。

 

 最後の「ジベ・パキスタン(パキスタン万歳)」の歌では、パキスタンでこの歌をきくと、すごーくしらけた顔して横目で見ている私ですが、つい大声で歌ってしまった。

ナマックカフェ

2010年3月25日

「ナマックカフェ」に横浜の佳世さんと藤田さんをさそって行った。マスターの伸さんはその昔、20年以上前、私がボンボレット谷のカラーシャ・バーヤ(兄弟)の家に住みだした頃に会ったバックパッカーの旅人さんだった。あれから月日は経ってはいるけれど、折々数年に一度ぐらいは会っているので、ずっとつながっている。

 伸さんは旅人を止めた後、じゅうたん屋としてパキスタンにも来ていたらしいが、カラーシャ谷にはあの時以来来ていない。私と同じく少数民族に惹かれるタ イプらしく、カラーシャに対しての思いは強くて、ボンボレット谷で出会ったカラーシャたちに必ず会いに行くと言っている。

 伸さんのこの店には、以前私が売りつけた(?)写真やカラーシャの子供が描いた絵がさりげなく飾ってあって、売った私はほとんど忘れていたとはいえ、 けっこう嬉しかった。店のインテリアも臭くない感じでかっこうよく絨毯が敷いてある空間もあるし、壁には今、ボブ・マーレー特集で日本でのライブの生焼き 写真が飾ってあり、置いてある雑誌はDays Japan。伸さん、こんなセンスよかったっけ?と思うほどの素敵な店だ。

東横線、横浜近くの人はぜひ行ってみてください。おすすめの店です。

http://home.f05.itscom.net/namak/index.htm

 

「アメリカー戦争をする国」を観た

2010年3月21日

 先日の私の講演会で数年ぶりに会った美穂さんの、親しいお友達、影山さんがプロデュースしたドキュメンタリー映画というので、美穂さんにくっついて東中野のポレポレ座に見に行った。

 映画終了後、影山さんと藤本監督は映画を作った動悸を話して下さった。また、ゲストとして写真家の森住卓さんとのトークもあり、内容のあるものだった。