バラングル村に着いた

2011年5月

 半年間過ごした佐賀ではルンブール谷の生活など遠いところにあったのが、4月24日に佐賀を出て東京に着いたとたん、「東京にいるのなら、早いとこルンブールに帰りたい」と思い始めたのと、NHKハイビジョンの「ビデオ日記」の番組制作会社から、谷での暮しをビデオで撮るようビデオカメラを託されたことも加わり、ゴールデンウィーク明けの5月9日には、パキスタン・イスラマバード行きの機上の人間になっていました。

ICLCパキスタンの代表ショーカット氏の勤務先、国立書籍協会を訪ね、我々の図書室用の児童本を購入。写真はこの協会で催された子供読書会の画像を見せるショーカット氏。。
ICLCパキスタンの代表ショーカット氏の勤務先、国立書籍協会を訪ね、我々の図書室用の児童本を購入。写真はこの協会で催された子供読書会の画像を見せるショーカット氏。。

 航空券を買ったすぐ後に、オサマ・ビン・ラディンがイスラマバードの近くでアメリカ軍によって殺されたというニュースが入り、イスラマバードに向う身としてはあまり気持のよいものではなかったのですが、2日間滞在したイスラマバードの様子は普段とたいして変わらず、外国人の私も普通にタクシーに乗って、両替屋や銀行、図書の本の購入などに出かけました。

 

 夜にはフォジアについて、ジナー・ショッピング・センターのブティックに行ってきましたが、以前一階だけの店だったのが、2階も増築されていて、女性の客で賑わっていて商売繁盛。けっこうな値段のシャワール・カミーズ(一番安いもので2700ルピー、高いのは軽く5000ルピー以上する)が飛ぶように売れていて、びっくりしました。

 

だんだんと子供たちだけの祭りになっていくのだろうか
だんだんと子供たちだけの祭りになっていくのだろうか

 チトラール行きの飛行機は今回は一発で飛んでくれ、何かしらラッキー!と鼻歌でも歌いたい気持でチトラールに到着。

 

 チトラールでのニュースは、まず、私のボンボレットの家族の一人であるムサシ・ディンが新しく設立された韓国のオフィス(ラワリ峠のトンネルやチトラール北部の道路建設を請負う機関)にコンピューター事務担当として雇用されたという。朝早くから夜の8時までびっちり働かせられると言っていたが、良い経験とキャリアになると思う。

 

 さらに、私の連絡先にもなっているホテル、マウンテン・インの手前に、州の観光局のチトラール支局も設立され、そこのマネージャーにボンボレット出身のカラーシャ、ザリンが採用され、彼の下に私の村出身のシェール・ワヒードが働くことになったことです。(ザリンはのムサシ・ディンの叔父で、シェール・ワヒードはサイフラー議長の4男。二人ともよく知っている。)

 

 これまで、せっかくカレッジまで進学しても、マイノリティのカラーシャは役所やオフィスの職を得ることが難しかっただけに、彼らがチトラールのしかとしたオフィスに就職できたのは大変によいニュースだと思います。

 

バラングル村に着いた

 5月12日、ルンブール谷に到着すると、村の人々から口々に、「日本での大地震のことをきいて心配したけど、サイフラーさんがあんたに電話して大丈夫だったときいて安心したよ」と言われました。

 

 「AKIKOの家」は冬の間、図書室、そしてクラフト制作室として使っていたので、わりあいにきれいに保たれていました。それでもジョシ祭りの後、親戚のザルマスに手伝ってもらって大掃除をして、図書室はいつでもスタートできるようにしています。春祭りの後の今の時期は、夏の畑地に移動したり、山羊を高地に移動させるための行事があったりで、子供たちも落ち着かないので、6月になって開こうと思っています。

 

 例年5月14日、15日に開かれる春祭りのジョシにも間に合うことができました。今年、踊り場があるグロム村のグリウ、そして谷の守護神が祀られるマハンデオまでセメントの階段が出来ていて、グリウまでの上り下りに難儀していた私自身やお年寄りには大変楽になりました。しかしせっかく階段ができても、祭りをリードするはずの年配のおじさん、おばさんの参加が年々少なくなっていて、祭りの盛り上がりには欠けていました。「便利になっても、肝心の中味がない」という現象がカラーシャ社会にも眼に見えて起こっています。