コシナワズ・カジの逝去

 冬の大祭、チョウモスが終り新しい年が明けると、人々は次にやってくる大きな春祭り、ジョシに焦点をあてる。特に女性たちは服や装身具を新調し、ジョシで披露するわけだから、パキスタンの国民服を着ている男性たちよりも、ジョシに向けての楽しみはことさら大きい。


 長い冬だから、5月半ばのジョシにはまだまだ時間があると思っていたが、あったかなかったかのような3月が過ぎ、4月始めの学校の1週間の春休みも終って新学期が始まり、ドレメッセ一族のお年寄りが亡くなってうちの村はずれで葬式があり、ミシンの修理とインターネットのためにチトラールに2泊3日するはめになり、帰ったらすぐにボンボレット谷の青年が亡くなりその葬式に1泊2日で行き、戻ってからジョシの服を縫い始め、かたわらクラフト隊2人に指示をしながらクラフト作り。そうするうちにキラサーラスの行事も済み、いったん暖かくなっていたのに、4月末に雷を伴った雹混じりの集中豪雨で小規模な土砂崩れがあちこちで起こり、道路も再び壊れてしまい、5月を迎える。


 家の周りの樹々の若葉がいつの間にか成長して生い茂り、部屋に日があまり射さなくなって、どうも部屋が薄暗い。これが夏だったら涼しくてよいのだが、冬が終わったばかりと思っている私にはうすら寒く感じる。そしてとうとう鼻水ジョージョー、くしゃみの連発、風邪を引いてしまい、目のまわり、頭のまわりが靄に包まれたようにぼんやりして調子が今ひとつでない。


 そんな中の5月3日の午後4時すぎ、村の店に小麦の値段を訊きに行った帰りに会ったヤシールの母さんが、「カジが寝込んでいるから様子を見に行く」と言うので、私も一緒に付いていく。

 カジの家には、息子1人、娘2人、山羊の放牧に行っているもう1人の息子さんの嫁さんがいるだけでがらんとしていた。カジは左奥のベッドに寝ていた。熱があるというので濡れタオルを額から耳にかけてあった。タオルをのけて額に手を当ててみると、高熱というほどの熱は感じなかったし、手も握ってみたが熱くなかったので、そんなにたいしたことはないだろうと思った。


 薬は飲んでいるのかときくと、ディスペンサリーの保健医が前日診察にきて、もらったシロップ薬があるがカジは飲まないという。食事もヨーグルトを一匙口にした以外はもう3日何も食べていないという。一応薬を見てみると、なんと腹にたまるガス止めと咳止めのシロップだった。せめて熱冷ましや頭痛の薬だったらわかるけど、よりによって食事もとらない患者にガスのシロップ薬を出すとは、去年かおととしに何千万ルピーもの予算をかけて新しく建て直されたディスペンサリーも、中で働く人間がこれでは一体なんのための公共設備だと腹立たしくなってしまう。


 先日チトラールの薬屋で買った熱の薬をサジャットの家にあげたのを思い出して、サジャットの母さんからそのうちの2錠をもらって、カジの枕元に戻って飲むように言う。もちろんその前にタシーリ(カラーシャパン)を少し食べるように言ったが、「ネ バーム(できない)」とカジは目を開けて、わりあいしっかりした口調言う。「じゃあ、この薬1錠飲もうよ」と勧めると、また「ネ バーム」である。「こんな小さな1錠の薬、すぐ飲み込めちゃうよ。ほら子供みたいに我が儘言わないで飲もうよ」と説得するが、結局あきらめた。あと1日すれば道路が修理されるということなので、チトラールの病院に連れていき、点滴すれば良くなるだろうと思った。


 吹けば飛ぶような小柄でガリ痩せのカジではあるが、生命力は強く、時々4〜5日寝込むことがあっても、そのつど心配するみんなをよそにけろりと元気になり、片方の曲がらない足を引きずりながら杖をついて、村のあちこちを歩きまわるようになるのだ。昨年秋から冬にかけては週に4日神殿で生徒たちにカラーシャの宗教や儀式について講義していたし、つい先日はボンボレットの青年の葬式に出かけ、その足でビリール谷の別な葬式にも参加している。


 そのビリールの葬式から帰ってから調子をくずしてしまったという話で、ベッドで寝ているにもかかわらず、カジは「今、ビリールから帰る途中だ。早く家に連れていってくれ」と寝言ともつかないうわごとをくり返していたが、予知能力もあり、チョウモスにはトランス状態になったりし、妖精まじりとも言われるカジが少し翔んでることを口にしても驚かず、私は部屋に戻った。


 その12時間後の翌朝4時すぎ、トイレで目が覚め、トイレから戻るときに、用務のザルマスとポリスのバッチャーが寝ている下の部屋で話声がする。何事かときいてみると、カジが亡くなったとの知らせが来たというのだ。この展開はまったく予期しておらず、頭が混乱してしまい、死者に会う際に被る正装用の頭飾り、クパースがそんなにしまい込んでないはずなのにどうしても見つからない。しょうがない、クパースなしでカジの家に急ぐ。


 カジが息を引き取ったのは午前3時ごろで、私が行ったときはベッドがベランダに運ばれていて、身体も清められ敬意を示すガウンも着せられてた。すでに大勢の村人が集まっていた。一部、下手の村の親族も来ていた。


 「カジはアキコは来ないのか、アキコはまだかって、そればかり言いながら死んでいったよ」と、息子さんからも、その嫁さんからも言われて驚いた。多分昨日、カジの枕元で薬を飲め、飲めと言ったので、それで朦朧とした中、私の名前が出たんだろうが、「アキコに話がある」とも言ったらしいので、気にはなる。私の家はすぐ近くなのに、家族は私を起こすのは悪いと遠慮して「明日呼ぶから」と知らせてくれなかったのは残念だ。そうでなくともその夜はシュシュットの尾ひれにビーズを付ける作業で12時まで起きていたのに。


カジとの関わり

 コシナワス・カジはカラーシャ唯一の語り部で、カラーシャの先祖の名をほとんどすべてを、本人は4万人の名というが、把握していて、伝えられる先祖の話や歌も数千はくだらないという。宗教的な伝統行事の詳細について村の年寄りに訊ねると、「私よりも、カジんとこに行って訊きんさい」といつも誰もそう言っていた。谷にやってくる民族学者や研究家は必ずカジのところに話を訊きにくる。


 カジはなかなかしっかりしていて、こういう学者や研究家たちからはちゃんと金を取る。汚れた服を着て垢だらけのミイラのような顔で杖ついてやって来られると、最初見たらぎょっとするだろうし、何回見てもやっぱり汚いなという印象は拭えないものの、実際にカジの脳みそから出て来るカラーシャの貴重な話の方が価値があるから、ずーとこのよれよれの格好で通してきた。もっとも、よれよれボロボロの格好は、わしは貧乏だということを強調するための計算も、頭のよいカジのことだからあったかもしれない。


 私たちのNGOは、2002年から2006年までの4年間、カラーシャの伝統的・宗教的な行事、儀礼、歴史を子供たちに継承させていくために、丸山純・令子夫妻と日本パキスタン協会を通じての「美穂子寄付金」の援助で、ルンブール小学校で毎日、学校の授業の前か終了してから30分ほどカジに講義をしてもらい、それを助っ人教員ヤシールにカセットテープに収録してもらうプログラムを組んだ。ヤシールはボランティアだが、カジにはもちろん給料を払っていた。そのうちボンボレット谷のギリシャ人の規模が大きい支援グループが、高い賃金を提示してボンボレットにカジを連れて行ってしまって、私たちのこのプログラムは終了した。


 私たちは前々からカジの話をどうにか形にしようと、部分的にテープ起こしはしているが、カラーシャ語の表示でつっかかっていてなかなか進まずにいる。今年こそはと、カジのチョウモスの話を教員ヤシールと通信大学生マシャールでテープ起こしをしてもらった。それをコンピューターに打ち込む作業を、向こうの村出身でチトラールのカレッジで学ぶ学生に頼んでからもう3ヶ月ほど経つが、パソコンが壊れたり、本人がカレッジの寄宿舎にいる関係で遅れまくっている。先日、その学生の父親にきいたら、「テープ起こしした原稿のカラーシャ語の書き方のまちがいが多くて困っていると言っていた」という。表記法が統一できないのが一番の問題ではある。打ち込み作業が出来たら、写真や絵なども加えて編集して「チョウモスの冊子本」を作って、カラーシャの生徒や学生たちに配りたいと思っている。しかしまだカジに効きたいことがあったと思うのに、こうあっさり逝かれてしまうとは。


カジの葬式

 カラーシャの宗教・伝統文化の最後の大物担い手であったカジの葬式は、ボンボレットからビリールからたくさんのカラーシャが参列した。カラーシャだけでなく、改宗したカラーシャ、ヌーリスタン人、チトラール人とムスリムたちもやってきた。道路が壊れてなかったら、もっと多くの人間が集まっただろう。


 葬式1日目から2日目の午後までは、徹夜でルンブール谷の住人がカジのまわりで歌い踊った。1日目の夕方は小麦タシーリ(平たいカラーシャのパン)とクインダ(塩付けの発酵チーズ)が集まった人々と谷の全戸に配られ、2日目の朝にはなんと牛5頭分の肉、カイー(肉汁に小麦粉を入れたもの)、プレチョーナ(バターを精製したもの)そして小麦タシーリが斎場の人々と谷の全戸に配られた。


 2日目の午後遅く、ボンボレットとビリール谷の弔い客が到着。一部のボンボレットの人たちは、特別に太鼓を叩きながら踊りながらやってきた。これはよほどの人物でなければ行われない。10数年前に伝統行事を司っていたバラマン・カジの葬式の時に、ボンボレットの人たちが太鼓を叩き踊りながら斎場にやってきた記憶がある。

 

 2日目と3日目の朝には小学校の生徒たちが教員の許可を得て、カジのベッドの周りでバズム(両手をあげて1人で踊る)を踊った。これも通常の葬式では見られないことだ。「カジの周りで生徒たちを踊らせよ」という声を、下流に住むある女性が夢で聞いたからなのだが、これもカジが生徒に講義をしていたから相成ったことであろう。


 2日目の夕方は小麦タシーリとパンディール(保存チーズ)が配られた。これは臭いがきつ過ぎ私は食べられなくて、よそにあげた。3日目の朝、親族たちが何度もバズムを踊った後にカジの遺体は埋葬された。その後、山羊30数頭分の肉とカイーとプレチョーナとタシーリが弔い客にもてなされ、谷の全戸に配られた。さらに斎場にいる人たちにはワインももてなされた。


 3日目の夜は親戚や村人がカジの家や周辺の家に集まり、泊まり込んでカジを偲ぶ。この夜は1頭の山羊が捌かれた。4日目の早朝、墓地にパンとチーズのお供えをする儀礼が行われた。私も早起きして参加した。この儀礼の後にカジの家に戻って、親戚の男性たちは頭と髭を剃る。3頭の山羊がさらに捌かれて、参加者みんなで食べて、葬式は終わった。これで女性たちは髪を結ったり、沐浴したりできる。


 しかし、7日間は親戚や村人が遺族のもとにタシーリやチーズ、あるいは油ご飯などの食事を持って訪ねて、そこでチャイを飲んだり、食事したりとだらだら続き、言い方は悪いけど、これは暇なカラーシャだからできる習慣だと思う。


 この葬式に費やされた費用は金額にすると、牛5頭で20万ルピー、山羊およそ40頭で80万ルピー、チーズ、プレチョーナ、小麦を加えると150万ルピーはくだらないだろう。私の台所には食べ切れずに山盛りになってひからびたタシーリや、これは保存できるからいいけどクインダやプレチョーナが残っている。せっかくの肉もカイーも、結局食べ切れず腐りそうなので犬にあげてしまった。犬も腹一杯という様子で、普段だったらご馳走のカイーも見向きもせず、しまいに胸焼けで草を食べてる始末だ。あまりまくったタシーリは牛の餌の鍋に放り込まれる。私も腹痛を起こして調子を崩してしまった。


 葬式の度に、これだけの費用を死者の生前に治療や健康管理に使ったら、死者ももっと長生きできただろうにとどうしても思ってしまうのは、私が日本人だからだろうか。


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