おばちゃんの突然の他界/Sudden departure of my auntie-in-low

 前回、5月20日にチトラールに来た際、アップする予定がエラー続きで果たせず、今日またチトラールに来たのでアップします。短く要約するのに時間がかかるんで、大変長くなりました。時間がある人、あるいはおばちゃんを知ってる人のみ読んでください。

 4月は雨が多くてなかなか春が来た感触にはならなかった。4月25日に山羊小屋で行われたキラサーラス(名前の由来はチーズの塊を浄める意だが、近年は山羊の乳の出が少なくこの時期はチーズを作らなくなった)の祭り事で、神殿や家々の入り口に飾り付けられたビーシャやカライを目にすると、ようやく春の気分になってきた。家の前の猫の額ほどの空き地を親戚の子供たちに手伝ってもらって、シソと豆の畑として整地したり、コースターを縫ったり、少しだけ活動的になってきた。

 

 そういう中、ジャマットの家族のおばちゃんが腹痛を起こした。3年ほど前から腸の自制がよく効かず、便を漏らすこともあったが、「具合が悪いんだったら、家で安静にしてなさい」と家族に言われても、あっちで誰かが病気になれば一目散に駆けつけ、そっちで3、4人集まって話をしてると、なんだなんだと首を突っ込むという、じっとしていられない性格なので、とにかく出歩き、見かけは病人には見えなかった。夜になったら、「おー痛、おー痛」と唸っていても、何か本気に取ってもらえなかった部分がある。

 

 しかし昼間も痛がるようになったので、親戚が用事のついでにアユーンの病院に連れて行った。医者はパンジャブ人だったらしくチトラール語は話せず、おばちゃんの脈を見ただけで便秘と診断して処方箋を出しただけ。家に戻って薬を飲んでも便秘は治らず、腹は膨れ、痛みが続いたので、数日後に今度は息子がチトラールに連れて行った。大きな病院できちんとお腹を調べてもらえばよかったのに、息子は薬屋兼クリニックに連れて行き、ここでも医者は心理的な便秘症と思ったようで、なんと8種類もの薬を買わせて「これで良くなる」と言い、家に戻した。

 

 しかし2度目の医者の便秘の薬も効かず、おばちゃんのお腹はいよいよ膨れ、私も触ってみたが石のように固くなっていた。食欲は全くなく、薬を飲むために無理にカラーシャ・パンを一口飲み込む程度。4月28日の夜、あまりに痛みが激しくなったので、翌朝今度はジャマットが付き添いに一族の女性2人も同行させて、おばちゃんをチトラールの市民病院に連れて行った。この1週間で3度目の病院だ。コロナのために乗り合いの車も走っていないので、特別チャーターになり交通費もばかにならない。

 

 ちょうど別の用事でチトラールに来ていたヤシールが病院に付き添って医者たちに話をしてくれたらしい。ジャマットは医療関係のことはちんぷんかんぷん、聞いたこともすぐ忘れるのでヤシールがいてくれてよかった。おばちゃんはすぐに入院となり、点滴と検査を受け、点滴に投与した薬で便秘が治れば手術はないとのことだった。しかし薬は効かず腹は膨張するばかり。

 

 そこで翌日4月30日、腹を開けることになり手術室に入った。そして腸に2か所の腫瘍が見つかった。これを取り除く手術はチトラールでできず、応急処置として、パイプを付けて腸の排泄物を外に出すことはできるが、その後、ぶら下げたパイプと汚物袋の付け替えや管理がカラーシャのおばさんでは無理だからと、ジャマットはペシャワールの病院に連れて行く決断をした。ジャマットはペシャワールでの着替えやIDカードなどを取りに、車をチャーターして家に戻って来た。

 

 コロナのためチトラールとディールの境も閉鎖されてる中、特別許可証をもらってラワリ・トンネルを越え、ペシャワールに行って帰ってくるとなると、普段の何倍も大変となる。まず、ジャマット自身がきちんとした説明をウルドゥー語かパシュトゥ語でできないので、誰か言葉ができる男性を必要だ。うまい具合によその村の従兄弟が同行すると言ってくれた。病人の付き添い女性として、ジャマットはグリスタンを希望した。彼女はよく病人に付き添ってチトラールの病院に行き、ウルドゥー語もでき、医者ともやりあえるからだ。

 

 しかしグリスタンは現在アユーンで「家族計画クリニック」で働く身で、コロナ・ロックダウン最中でも勤務していて長期休暇は取れないという。ジャマットは諦めず、グリスタンの上司に電話して頼むが、上司はチトラール行政区長の許可がなければダメだという。それだったらと、ルンブールのカラーシャでカイバル・パシュトゥーン州のマイノリティ州議員になっているワジールザダにジャマットが電話したら、「俺が話をつけるから、グリスタンを行かせていい。問題ない」と言った。私もグリスタンが付き添ってくれたら病人ももう一人の付き添い女性も心強いだろうと思った。グリスタンはペシャワールで着るシャワール・カミーズを持ってないので、近所のポリスの娘から2着借りて、アイロンかけたり、私のシャワール・カミーズやショールもバッグに入れて準備した。

 

 翌朝の5月1日、準備したバッグを持って、グリスタンの家に行くと彼女はまだ布団の中。聞くと、「私は行かない」と言うのだ。州議員のワジールザダは「自分の口添えで、すべてがうまくいく」と簡単に口だけで言ったが現実は甘くなく、彼女の上司が「長期休暇は与えられない。行くなら、仕事を辞めて行きなさい」とその後言ったらしい。それでグリスタンは行かなくなり、代わりにチトラールのカレッジで勉強した病人の孫娘が、生理中でバシャリ小屋にいたが急遽沐浴して同行することになった。

 

 昼過ぎ、チトラールに着いたジャマットから電話で連絡があり、救急車に乗れる付き添いは3名までと言われたらしい。それでもまたしてもカラーシャ州議員が行政区長に頼んだら特別4名にしてくれるかもとか、何やらかんやら、電話連絡があちこち行き来したようだ。運悪くラマザンやコロナだけでなく、ちょうどメーデーでパキスタンは休日ということもあり、ラワリトンネル越えの許可証を区長や病院長からもらうのにも大変な時間がかかったらしい。

 

 私は私で、ペシャワールの家族ぐるみの付き合いのある現在上院議員であるフィダさんに連絡した。フィダさんは「救急患者なら、ノーシャラの病院に連れて行けばよい。マラカンド峠付近に着いたら、電話しなさい」と言ってくれたが、諸々の手続きで救急車の出発が遅くなり、ジャマットたちはバタバタして、チトラールの病院からの紹介状を持ってペシャワール・ハヤタバードの総合病院に向かい、連絡できなかった。後でフィダさんに「どうしてノーシャラ病院に行かなかったのか、そこには息子と娘夫婦の3人が医者として働いているのに」と言われたが、とにかくフィダさんは英語が得意でないし、ジャマットはカラーシャ語とチトラール語以外はブロークンだから電話で話をするのは非常に困難だ。特に間に人が入ると、話があさっての方に行ったりする。

 

 とにかく翌朝病人はハヤタバード総合病院に着き、門で待機してるというので、フィダさんの知り合いの方を病院に行って話をしてもらったりしたが、この病院はコロナ感染センターになっているらしく、中に入るのも厳禁で、ジャマットはその方には会ってないという。とにかくわけがわからない。おばちゃんは救急病室で手術したが、腫瘍は切らず、腸にパイプを付けて排泄物を出したという。腫瘍についてはカラチに送った検査の結果が2週間後にわかるので、腫瘍が癌でなければ2ヶ月後に摘出手術をするという。パイプで溜まっていた物を出して、おばちゃんは「スッキリした」と言っていたそう。

 

 5月6日、ジャマットから連絡あり、「明日退院させられるが、車の手配がわからないので、フィダさんに頼んでくれ」とのことだが、フィダさんにも彼の知り合いにも連絡つかないので、メッセージを送っておく。後で「ノー プロブレム」と返事が来ていた。

 

 5月7日、退院してチトラールの病院に戻されるのはいいとしても、付き添いの3名がチトラールに入ったら、コロナのために2週間の隔離を強いられる。病人のおばちゃんはこの病院に着いた日にコロナの検査を受けネガティヴだった。付き添いたちもそうだろうとの元に一緒に病室に滞在しているのだから、彼らがコロナでないという証明書を病院んい出してもらうよう、またもやフィダさんに頼もうとするが、電話が繋がらず。

 

 そうこうするうちに、付き添いのジャマットの従兄弟から「これから薬を購入し、チトラールに向けて救急車に乗る」との連絡がある。ところが救急車に移動する際に、パイプが外れて、翌日付け直しの手術となる。これがうまく行かず、何度かやり直しの後、5月10日にようやくチトラール病院に搬送ということになった。午後4時ごろマラカンド峠に着いたと連絡があったので、夜にはチトラールの病院に着くだろうと安心して、私は夜パソコンでDVDを観たりしてのんびりしていた。

 

 そろそろ寝る支度をしようという10時半ごろ、私の護衛ポリスから「ダジャリャ・アーヤがラワリ・トンネルの手前で亡くなったそうだ」という思いもしない電話があった。頭の中が真っ白になり、何をどうしていいか分からず、とりあえずダジャリの家に急ぐ。知らせは村人にあっという間に広がり、ダジャリの家だけでなく、親族の家、ベランダにはすでに多くの人たちが集まっていた。

 

 救急車はカラーシャ谷には入れず、アユーンで遺体は木材を積むボロ・トラックの荷台に載せられ、ジャマットたち3人は乗用車をチャーターして真夜中1時半頃にルンブールについた。付き添いの3人はポリスによって村人に会う前に休校になっているムスリム小学校に隔離された。

 

 おばちゃんは体もまだ暖かく表情も普通に寝ていて今にも目を覚ましそうだったが、体を洗うために着ているシャワール・カミーズを破って脱がせると、腸からつなげた管と血で半分満たされた汚物袋、それを固定するコルセット、尿管にも管がつけられていた。実は鼻にも管があったが、アユーンで取り外したそうだ。尿管の方は、ちょうどコロナ休暇で帰省していた看護師のトレーニング中の娘が注射器で尿を除いてから外したが、腸からの管は外すと血液や汁が出てきそうななのでそのままにして、新たに着せたカラーシャのドレスの中に隠しこんだ。

 

 

 体を洗われカラーシャの正装をしたおばちゃんはベッドに置かれて、ジャシタック神殿に移され、女性たちがベッドの周りで別れの歌を歌い出した。葬式が始まったわけだ。女性の葬式には太鼓を叩いての踊りは行われない。コロナのソーシャル・デスタンスにより、早朝にボンボレット谷に使いが行き、普段の葬式では夕方に弔い客が来るところ、今回は午前中に弔い客がやって来、チーズと小麦パンがもてなされ、午後2時頃に牛5頭分の肉とギー入り肉汁ポタージュ、小麦パンが出され、3時に遺体は埋葬に持って行かれたるという縮小版となった。

 

春祭り(ジョシ)/Zhoshi Festival

 翌5月12日の朝、埋葬場の脇に小さなパンとチーズを捧げて、ダジャリとその親族の家には夜通し7日間人が集まり亡き人を偲ぶ。今回は同日に春祭りが始まるので、家族、親戚の男性たちが頭を丸め、ヒゲを剃り、その後山羊を犠牲にして肉とポタージュ、小麦パンが参加者にもてなされてから、全員に花を頭にさす「喪明けの行事」を午前中に終えて、午後から「春祭りの1日目の行事」、神殿や家々に飾るビーシャ、クルミの若葉、翌朝食する菜摘みに女、子供たちが畑や山に出かけることになった。

 

 13日の明け方に、子供たちによって花と若葉で神殿の入り口やジャシタクの棚が飾られたが、葬式の直後だったので太鼓は叩かれなかった。この日私とダジャリの奥さん、姉さんとで「浄めの儀礼」も受けた。

 

 14日は「小ジョシ」。夜中に大雨が降り、日中も雨だったし、コロナで踊り場に多く集まるなとポリスたちに言われたこともあるし、下腹も痛かったので、私は踊り場には行かず。踊り場ではマスクが無料で配られていたらしい。

 

 

 15日の「大ジョシ」には天気も回復。宗教的な行事が始まる3時過ぎぐらいに踊り場に行こうと思っていたが、昼過ぎにヤシーラ・アーヤに誘われたので行くことになる。年配たちはほとんどいないが、若者たちはコロナに関係なくたくさん集まっていた。今回は観光客はもちろん一人もおらず、カラーシャでもボンボレット谷、ビリール谷からも参加してはならぬという通達があり、ある意味、地元だけで楽しまれてよかったとも言える。私はワインを飲んで強い睡魔に襲われ、宗教行事が始まる前に退散した。