義父亡くなる / My father-in-law passed away on Oct. 4.

ジャマット・カーンの父親、バクデールおじさんが10月4日に逝去した。ジャマットの実父は幼い頃に亡くなり、実父の2番目の弟のバクデールおじさんが育ての親で、IDカードにもジャマットはバクデールの息子と明記されているし、だいたいカラーシャでは実父の兄弟も従兄弟も父さん(ダーダ)と呼ぶから、バクデールおじさんがジャマットの父親ということに異存はないだろう。

 

 

My father-in-law passed away on Oct. 4. who was the most respectable person among the Kalasha and always stood by my side when an argument started with my husband. People say he was over 100 years old  (I guess around 95 years old) though his brain was clear and kept all his teeth until he died. There are many topics about him so I’ll try to write later in English.

私はジャマットの妻ということで、嫁さん(バウー)と呼ばれるはずだが、バクデールおじさんはわしの娘(マイ・チュ)と呼んでいた。ジャマットと結婚したのは、いつも言っているが、彼個人だけでなく、彼のバックグラウンド、つまり家族(当時3人の父さんとその妻子で合計20数人が一つの家に住んでいた。今は5世帯に分家している)や村人たちも気に入って、腰を落ち着けて暮らしてみようということになったのだ。

 

その気に入った筆頭がバクデールおじさんだった。彼は背が高くて(ジャマットは低い)凛々しく、国境警備隊の隊長だったので隊長(アワルダール)と呼ばれていた。凛々しいだけでなく寛容で、ジャマットが問題を起こした時はおじさんが責任を持って肩替わりしてくれた(ジャマットの話)らしい。そのジャマットが難癖を付けて私と喧嘩になり、挙句に「お前なんか出ていけ!」と喚いた時、おじさんは私の味方になって、「そんなこと言うなら、わしもこの娘と一緒に出て行く」と言ってくれた。バクデールおじさんがいてくれたから、あの頃の騒動を乗り越えられたと言っていい。

 

私の功績として一番に挙げられる水力発電プロジェクトに関しても、当時私自身は電気よりもトイレの普及などの衛生問題に取り組むことが大事だと思っていたし、電気が入ればカラーシャの伝統生活も急激に変化してしまうことも危惧していた。しかし、バクデールおじさんが「ここには電気が必要じゃ」と言ったことで、我々の結婚の儀礼に参加された日本大使館の村岡大使の協力もあり、電気を優先したのだった。おじさんはそれまで「あれが欲しい、あれを持って来てくれ」と一度もねだったりしなかったので、年配のバクデールおじさんがそんなに要望するならばと舵を切ったのだ。(今では私にねだっても何も出てこないと村人たちは了解しているものの、以前は金持の国から来た日本人だからと「今度日本に行ったら、あれ買ってきてくれ、あれ持って来てくれ」とカラーシャだけでなく親しくもないムスリムたちからも当たり前のように言われていてうんざりしていた。)

 

バクデールおじさんは100歳とか120歳だとか周囲の人は言っていたが、ムスリムに改宗した長男が60代なので、多分90代半ばだろうと思う。180センチ近くあった体は膝の痛みと老化ですっかり縮んでしまっていた。しかし歯は健在で、亡くなる数日前もチキンスープのスープは飲まず肉を食べていた。カラーシャではあの歳で歯がちゃんとあることは驚異的なことだ。最近若い人が歯を磨くのを目撃するが、多くは普段歯を磨かないので、若いうちから歯痛を訴える。その治療といえばペンチで抜歯するくらいしかないので、中年になったら

歯がかなり減ってくる。もちろん今は経済的、時間的に余裕のある人はチトラールやペシャワールの歯科に行くが、普段の管理が悪いので

完治はしない。どうしてカラーシャは歯を磨かないのか不思議である。

 

おじさんの死は8月にベッドのそばで転倒して打撲し、痛みで足も体も動かせなくなったのが直接の原因だった。葬式は1日目はルンブール谷の人々で、2日目はボンボレット谷やビリール谷からの弔い客が参加し、3日目は近親者の別れの踊りの後に墓場に埋葬される。3日間で4頭の牛と24頭の山羊が捌かれ、たくさんのチーズ、ギー、小麦パン、ワインがもてなされた。

 

その翌朝は大勢で墓場に行ってチーズとパンのかけらを供える。家に戻ったら、親戚の男たちは髭と髪をそ理、再び山羊を捌いた肉とパンを全員に振る舞われる。埋葬日から7日間、昼間は遠方の人やムスリムの人が死者の家に悔やみに訪れ、夜は親戚や村人たちが集まって食事をしたりお茶を飲んだり、徹夜でわいわい雑談する。死者が去った悲しみを乗り越える習慣だろう。(みんな暇だから、こういう習慣も続いて行くんだろう)

 

8日目の午前中に親戚や村人が集まり、男たちはまた髭、頭を剃り、女を含めた全員でチーズとパンの食事をして、その時期に咲いてる花や葉を各々の帽子や頭飾りに挿し、一応の葬式行事を終わりにする。(今日がその日だが、私は用事で昨夜ペシャワールに来たので参加できない)でも近親の者たちは次の祭り、今は10月なので12月のチョウモスが始まるまで喪に服す。つまり、男は髭、髪を伸ばしたままにして帽子を被らない。女は日常被っている頭飾り(シュシュット)を脱いで、冠婚葬祭用の頭飾り(クパース)だけを被る。また色のついた糸に触れるのも禁止。だから衣装を縫ったり、帯を織ったりすることもできない。男はともかく女にとってはけっこう不便ではある。

 

何にしてもアワルダール義父さん、天国の神様のそばで安らかに休んでください。でも眠ってしまわないで、これからのカラーシャが良い方向に行くように見守ってください。ついでに世界の平和も祈ってくださいね。