春祭りと葬式と熱発症/Spring Festival, Funeral and having fever

  パキスタン政府は5月8日から16日までロックダウンを通達した。カラーシャのジョシ(春祭り)はルンブールでは14日、15日、ボンボレットでは1日ずれて15、16日、つまりすっぽりロックダウンに被さってしまった。というか、ちょうど、イスラム教徒のラマザン(断食)明けのイード祭がジョシと重なったために、「断食から解放されたムスリムたちが、カラーシャの春祭りに押しかけるのは目に見えていて、クラスターにでもなったら大変だ」と政府が意識してこの期間をロックダウンにしたようにも思える。

  カラーシャにとってはロックダウンのおかげで、昨年に続き、国内外ツーリストがいないカラーシャだけの春祭りとなり、伸び伸びと祭りを謳歌した。と言いたいところだが、確かにツーリストがいないのは非常に良かったが(一年の中でジョシ期間だけ満室になるゲストハウスにとっては真っ青、真っ暗だったろうが)、私個人としては散々な目にあった。

 

 「コロナなんてあさっての世界」のカラーシャたちとは違い、私は外に出るときはマスクを付け、ほっぺや手にキスするカラーシャの挨拶もなるべく避け、人の中にいるより自室にいるように心掛けていた。チトラールの病院には感染者が隔離されているし、ルンブール谷でも春に下流のゲストハウスのイギリス人旅行者がコロナ感染者だったと判明している。ペシャワールやイスラマバード からチトラール地域には毎日大勢の人が行き来しているので、カラーシャ谷にコロナが入ってこないわけはない。

 

 コロナ行動自粛での運動不足が祟って、ジョシ1日目でグロム村の踊り場、これが急な階段を登った上にあるんだが、踊り場に着いたとたん疲れてしまった。体が重く、普通だったら太鼓の音を聞くと自然に体が動いて踊りたくなるのに、一回グリスタンたちとチャーを踊っただけで、後は見物人となって、踊り場の周りの角材に直射日光を浴びながら座っていた。これがいけなかったようだ。

 

 体が重いと気分も重くなり、何にしても1日目はただカラーシャの代表的な3つのタイプの踊り、チャーとドゥーシャックとダジャエーラックを踊るだけなので、2日目のジョシならではの宗教的な催しや踊りが繰り広げられる大ジョシのためにエネルギーをとっておこうと早々に引き上げた。そして、帰宅途中にさらに気分が暗くなる話を聞いた。

 

 踊り場のすぐ下の家の親戚のお婆ちゃんが、夜中にベランダの柵を乗り越えて7m程下の畑に落ちてさらに下方に転がった。その死体が早朝に発見された。ジョシの最中なので、遺体は家の床下の納屋に置かれていて、翌日の大ジョシが終わったら葬式を始める、この話は誰にも口外無用と言われた。

 

 お婆ちゃんはジャマットの母親の弟の妻で、長女はジャマットの家族同然の従兄弟と結婚しているので、けっこう近い関係にある。お婆ちゃんはルンブールで一番きれいで美味しいとうもろこしタシーリ(平たいパン)を焼き、グロム村からお婆ちゃんのタシーリを転がしても、下の道路までバラバラにならずに固くそのまま形が残っている、と言われていたぐらいだ。きちんとした仕事をする彼女を私も敬意を表していた。

 

 誰にも言うなと言われていたが、すでに村のほとんどの人がこの話を知っていた。お婆ちゃんの死は、早く死にたい、と本人が言っていたし、柵を乗り越えて落ちているから自殺らしいと聞き、さらに憂鬱になった。

 

 そういうことで、翌日の大ジョシの日はエネルギー消滅。宗教的な行事には参加したいので、午後2時ごろ踊り場に行った。この日の宗教行事のガッチに参加はしたが、そのあとの楽しいはずの踊りの時も少し写真を撮っただけで座っていた。座っている間にも背中、腰、足の痛みが増していったので、早々に帰宅して熱を測ったらなんと38.2度もあった。私の平温は35.8度、滅多に熱が出ない体質なので、熱はあっても37度ちょっとだろうと思っていたのでこの数値には驚いた。

 

 日本の友達が置いて行ってくれたロキソプロフィンを飲んだら一発で熱が下がったので、たった一錠の薬の効果に驚いて、逆に体に良くないかもと警戒して翌朝は飲まずに、再びグロム村へ。今度はお婆ちゃんの葬式のために踊り場よりもさらに高い所にある神殿へ。

 

 生前の上品だったお婆ちゃんはここんところ下痢が続いていたということで、神殿のな中央に置かれたベッドの上ですっかり痩せて別人のようだった。ベランダから落ちた時に腰を折っていたそうだが、遺体は洗われ服を着せられ光沢のある布を被せられているので身体の様子はわからない。

 

 夕方と翌朝に葬い客と谷の全家庭に配る食事のパンの粉が各家に配られ、女性たちは家に戻ってパン焼きを始めたので神殿にはあまり多くの女性はいなかった。男性は神殿の周りに座ったり立ち話したりで神殿の中にはほとんどいない。男性の葬式では太鼓に合わせて歌と踊りがつきものだが、女性の場合は親戚の女性たちが遺体の上に手をかざしながら、話しかけるように歌うのみである。

 

 葬式2日目。前夜また37度台の熱があったが例の薬を飲んだら下がったので、またグロム村の神殿へ。遺体はもう4日目なので早く埋葬されて、ボンボレット谷やビリール谷から来た葬い客に肉、ギーかけ肉汁ポタージュ、小麦粉タシーリの食事が出され、その後われわれ地元民にも配られた。久しぶりのヤギ肉なので、お婆ちゃんには申し訳ないけど、少しワクワクしながら帰宅。私以上にタローはモツと骨で大興奮。数個の肉片は親戚に半分あげて、自分用には腐らないよう網ネットで入れておく。モツは細かく切ってカレースパイスで炒める。お腹が満足したし長い昼寝。でもずーと37度台の熱はある。

 

 葬式3日目。クシューリック・ヒステック。墓場の端に小さなタシーリとチーズを死者のためにお供えする行事。私はイマイチ体がかったるいと思ったらまだ37.5度の熱があり、グロム村には行かなかった。3錠目のロキソプロフィンはあまり効かなくなり、熱は38度近くに上がる。扁桃腺が口の半分ぐらいまで占拠し、喉の奥も痰が張り付いて気分悪し。ヤシールに頼んで喉と風邪の薬を買ってきてもらった。喉のドロップ2種、解熱痛み止めのパラセトモールだった。ドロップはほとんど気休め、パラセトモールは飲まずロキソプロフィンを飲むが、もうほとんど効かず往生する。

 

 5月19日。明け方布団の中で、喉の腫れには抗生物質が良いのではと思いつく。これまた日本の友人が置いていってくれたプロモックスがある。そうなると早く飲みたくて、午前4時に、冷やご飯(ポテト、トマト、玉ねぎ入り)を食べてから1錠飲んだ。しかしすぐには効かない。では解熱剤のロキソプロフィンも飲もうか?しかし抗生物質と一緒に飲んだら悪いのかも?それでパソコンを開けてグーグル。スマホでもグーグル。ネット環境の悪さで何時間経っても開いてくれない。まあ午後になって、両方を一緒に飲んでも大丈夫なことが判明したので飲む。すると効くどころか一時は38.2度まで上がり、がっかりしてしまった。37度台に下がったので、服を着て少し散歩。

 

 5月20日。36度台に下がったので、日常生活に戻る。病魔を追い出すため、布団干し、シーツ交換、部屋の掃き掃除などけっこう頑張って汗が出た。しかし熱は37度台に鎮座しているので、コロナではないかと疑い、コロナの症状をネットで調べる。体温測定で、舌と脇で2度の差があったりするのでそれも調べる。ありがたいことに、日本・博多の飲み友達とメールでやりとりしていたら、向こうで調べてくれ、その情報ももらう。メール送受信がものすごく遅いっていっても、一昔までは考えられないことだ。手紙だと1ヶ月以上、往復で2ヶ月のところを、メールだと早くて当日、遅くて2~3日でメッセージのやりとりができるなんて、本当に世の中便利になったものだ。スマホのFBメッセンジャーなんぞ数秒だもんね。

 

 結局、多分コロナではなかったと結論づけるが、私は自分で体験したり実験するのが好きなんで、今度の病気も自分を実験台にして観察して面白がってる部分もあった。今も喉はスッキリしていないけど、これはもう何年も前からこういう状態だからいいのだ。とは言ってもやっぱりコロナ感染の体験はしたくないですなあ。

 

●ジョシ(春祭り)の準備/Preparing for Zhoshi

 

ジョシは終わりましたが・・・

 

●アキコの小物作品/ Akiko’s Crafts

 

コロナでルンブール谷には旅行者が来なくなっていたが、4月に外国人旅行者にはジョシ期間だけ許可を出すという話があり、もしかしたら販売できるかもと作った小物。でも祭りに外国人は一人も来なかった。